第7章 寝ぐせ姫の最初の一個 (4)
(―俺、ほんとにみつきの親父の代わりなんだろか…?)
一成は最初の一個が舞い降りたあとも、本格的に雪が降り出す気配のないことに安堵しながらみつきの小さな手を引いていた。みつきは一成に腕を引かれる安心感から、ずっと空ばかり見上げている。
(―ほんとなに考えてんのかわかんねぇやつだ)
次に落ちてくる雪を今度は口で受け止めようとでも言うのか、みつきは2個目を待ちながらぽかっと口をあけている。
「おい、そんな大口開けてっと雪じゃなくて虫が入るぞ」
一成のからかいと嫌味にみつきがあわてて口を閉じ、一成の腕にその手を巻きつけた。この寒空に虫などいるわけもない、一成はみつきの浅はかな思考に呆れつつみつきがすがりついた腕をポケットに差し入れた。
「みつき、明日さ、一緒に学校行くか?」
「ん~…?」
「明日、雪が積もってたらお前どうせ転ぶだろ?」
一成はまたあらぬ方向へ注意を向け始めたみつきの腕を軽く小突いて、その注意を自分に向けさせる。二人はようやくみつきのマンションにたどり着いていた。
「みつき、聞いてんのか?明日、出るとき電話するから、お前ここで待ってろよ?」
「ありゃ、一緒に行ってくれるのっ?」
「ああ、雪が積もったらな」
「え~、雪が積もらなくても一緒に行こ?」
みつきは一成の手を両手で包み込みながら、にこりと微笑みすこし小首をかしげてみせた。そのそぶりは沙紀のおねだりのときのしぐさにそっくりで、一成は冷え切ったみつきの髪をくしゃりと崩して微笑んだ。
「わかった。じゃあ出るとき電話するから、ちゃんと用意しとけよ?」
一成は沙紀に言い聞かせる時と同じように体をかがめてみつきの目線に視線を合わせた。
「えへへ、カズと学校行くの初めてだね」
みつきははにかみながら後ろ手に腕を組み、アスファルトに足先でのの字を書きながらふっと一成を見上げて微笑んだ。
「嬉しいな」
えへっと小首をかしげたみつきに、一成はまた頬が赤らみそうになる。時々急に愛らしいそぶりを見せるみつきに一成は翻弄されるばかりだ。耳まで赤く染め上がり、どうにもできなくなる前に一成は家からずっと手にしていたみつきの大きい紙袋をぐいっと差し出した。
「ほ、ほらっ、明日持ってくんだろ、忘れんなよ」
「あっ…そだった」
いけないいけない、そんな風にみつきは呟いて一成から紙袋を受け取るとなにやらごそごそとし始めた。
「じゃあな、また明日な」
一成はもう一刻も早くその場を立ち去りたくて手短に別れの挨拶を済ませると、ろくにみつきの顔を見ずにきびすを返した。
「あっ、カズっ、待ってっ」
ともすれば駆け出していきそうな一成を追いかけて、みつきがそのコートの端をぎゅっと握り締めた。
「なっ、なんだよ。早く家に入れ、風邪引くぞ」
一成はみつき相手に顔を赤らめた羞恥心から心臓の鼓動が収まりきらない。コートを掴まれてまたみつきの不意打ちにあったら、今度はもうどうしようもないだろう。一成がなかなか振り向く様子がないのを悟ると、みつきは一成の前に回りこんでその手を差し出した。
「カズ、いつもありがと。これ…チョコなんだけど…受け取ってくれる?」
みつきの手には小さな赤い包みが握られていた。それはあの紙袋の中の白い包みと同じくらいの大きさだったけれど、あの紙袋を一成がのぞき見たときにはこんな赤い包みは見えなかった。
(―隠して…たのか…?)
まさかこんな仕掛けがあるとは思わなかった、一成が驚きに目を見張り言葉を失っていると、みつきはそんな一成を伺うように不安げに瞳をゆるがせていた。マンションのエントランスの明かりに映し出されたみつきに、自分の影が覆いかぶさる。逆光のなかで自分の顔がどんな風にみつきに映っているのか、一成がみつきの瞳に自分を探していると、みつきはまた不安げに言葉を紡ぎ出しながら赤い包みを握る手を微かに震わせた。
「これだけはちゃんと自分で作ったんだよ…?ゼリーもちゃんと作るつもりだったんだけど…時間なくて…」
「…みつき…」
一成は包みを持つ手袋の下の絆創膏に思いを馳せた。そして意地悪にもその絆創膏がバレンタインのためでないことを確信してしまったことを後悔した。
「やっぱり…いらない?」
一成の手が一向に動く様子を見せないことにみつきが小さく声を震わせ、おずおずと手を引いていく。
「…お前はほんとに…何考えてるかわかんねぇ…」
一成は包みが視界から消える前に、みつきの腕ごと自分に引き寄せた。その反動で倒れこみそうになるみつきの体を一成はしっかりと自分の腕で包み込んだ。
「よかった…カズが受け取ってくれなかったらどしよかなって…ちょと心配したんだ」
みつきは一成の腕の中でコートの感触を楽しむようにそっと頬を寄せている。受け取らないわけないだろう、一成は言葉にしたくても言葉にならない思いを載せて腕の中のみつきをそっと抱き寄せた。その腕の中からみつきが瞳を伏せたまま一成にそっと囁いた。
「カズ…うれし?」
「ああ…うれしい…すげぇうれしい」
「ホント?」
「ああ…かなり、びっくりした…でも、ホントにうれしい」
「良かった」
一成は今度はきちんとその気持ちを言葉に乗せてみつきの瞳を見つめ返す。もう自分がどんな顔をしているか、みつきの瞳の中に自分を探さなくても一成には分かっていた。自分は今かなり浮かれた顔でみつきを見ているはずだ。さっきまで心の底でわだかまっていたバレンタインへのうらみつらみが見事に溶けてなくなっていた。
「みつき…」
好きだ、そう言おうとした一成の口が凍りついた。それは寒風吹きすさぶ外気のせいでも、みつきの携帯がなったからでもない。みつきがぽかんと空を見上げて微笑んでいたからだ。
「雪…降ってきた…」
みつきは次々と舞い降りる白い雪に魅入られて、一成の腕から離れてくるくると回り始めた。
「カズ、雪だよ。いっぱい降ってきたっ」
雪が降り庭に出てはしゃぐ童謡の中の犬のようにみつきはやったやったとぴょこぴょこ跳ねた。一成はそのみつきの姿に言えなかった言葉を溜め息に変え、手にした赤い包みの暖かさにふっと笑みをこぼしていた。
「そうだな。よかったな」
「うん。いっぱい積もるといいな」
みつきは一成にぴょんっと飛びつくときゅっと抱きしめた。一成はみつきに聞こえないように小さく吐息をつきながら、その髪にそっと口付けた。
降りしきる雪の中、みつきに借りたビニール傘をさして一成が自宅に戻った時にはもう辺りはうっすらと白く変わりかけていた。玄関先で肩先の雪を払うと、一成は静かに靴を脱ぎコートのボタンをはずして袖を抜いた。
「あら一成、随分おそかったのねぇ」
「ああ、みつきが寄り道ばっかするから、おかげで雪に降られた」
一成は意味深な母親の微笑みに、思わず緩みそうな口元を必死に押し隠してそっけないそぶりを装った。けれど一成の濡れたコートを習慣的に受け取った母は、そのポケットの違和感にすべてを悟ったようだった。
「あらぁ…何かしらねぇ…?」
わざとらしく驚いた振りをして、さり気なくポケットに伸ばした手が赤い包みを引き出す前に、一成は慌てて母親からコートを奪い取った。
「なっ、なんでもないっ」
これだけは誰にも触らせたくない、一成が必死に奪い取ったコートから手を離し母は少し瞬いた後その口元をふっとほころばせた。
「ふ~~ん…そうよねぇ。うちの息子もやっと思春期を迎えたのかしらね」
うふふと意味深な笑みを浮かべて母親がくるっときびすを返すと、その肩越しに一成を振り向いた。
「みつきちゃんいい子だもの。お母さんは大歓迎よ?安心してね」
「なっ…」
何を安心しろと言うのか、一成は母親が浮かれた声音と踊るような足取りでリビングへ引き上げていく姿に怒鳴りつけそうになりながら、その叫びを必死に飲み込んだ。赤い包みはポケットから半分だけ顔をのぞかせていて、一成はそれをコートで包み隠すとそのまま階段を駆け上がった。
(―なんであんなに勘がいいんだよっ)
一成が母親の侮れない勘のよさを恨めしく思いながら、ようやく自室に引き上げるとそっと扉の鍵をかけた。そしてコートをゆっくり開いてそこに紛れもないみつきからの赤い包みを見出すと、ようやく安堵の息をついた。
(―どこにしまうか…)
貰ってうれしいと思った最初のチョコを、さっさと食べてしまうことは出来ない。一成が緩む口元を隠すことなく赤い包みへそっと頬を寄せると、リボンの隙間からは甘い芳香がその鼻を掠めた。
「みつき…」
甘い香りは一成の心も体も絡めとりながら、一成を包み込む。暖房をつけたばかりの室内はまだ外となんら変わりなく冷え切っていたけれど、一成の心には温かな思いが満ちていた。体の中で溶けていくチョコのようにみつきが自分だけのものになってくれたらもう他に何もいらない。一成は包みに込められたみつきの想いを推し量りながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
(―誰にも渡したくない)
一成のみつきへの独占欲は自分でも信じられないほどに強く心に根付いていた。みつきの手にしていた紙袋の中は白い包みがたくさん入っていた。不特定多数の中の赤い包み、自分へのチョコだけが特別な意味であるようなその優越感は一成の心を甘美に包み込んだ。二人の間に舞い降りた雪、あの雪は本当に最初の一個だった。けれどあれが最後のチャンスだったと一成が知るまで、そう時間はかからなかった。




