第7章 寝ぐせ姫の最初の一個 (3)
「お前…なに考えてんだよ」
「え~、カズ、面白くなかった?」
「面白いとか、面白くないとか、そういう問題じゃないだろっ?」
「何で怒るのぉ?あ、カズ、コーヒーゼリーじゃいやだった?」
「いや、そうじゃなくて…」
みつきが小首をかしげて一成を見つめるその視線、いつもならばほだされるみつきのそぶりにも一成の心のわだかまりは否応なく堆積して行く。
「だってカズ、甘いのやだっていうからさ、一生懸命考えたんだよ?」
「お前は考えただけで、作ったのは春香さんだろ」
「む~、それを言っちゃあおしまいだよ」
みつきはわざとらしくちっちっちっと口に出しながら、人差し指を左右に動かし口を尖らせた。今日はやけにおじさんくさいそぶりの多いみつきに、一成の中に降り積もったわだかまりがいらだちに変わっていくのを抑えがたくなっていた。
「あぁもう、分かった分かった、悪かった。ほら、さっさと歩け、寒いだろ」
一成は立ち止まったままのみつきの腕を少し乱暴に引き寄せると、みつきの歩幅を失念して足早に歩き出した。一成の足並みに合わせようとみつきは若干小走りになりながら、白い吐息を小刻みに宙に放って楽しげな声音を出した。
「ねぇ、カズ、雪降る?」
「ああ、降るんじゃねぇの」
時候の挨拶程度のバレンタイン、寒空の下でも変わらぬ能天気なみつきのそぶり、ないがしろにされた一成の期待が不満に変わって飛び出していた。
「雪、降って、欲しいなぁ…」
一成の気のない返事に緩むことのない足取り、それでもみつきは一成に腕を引かれたままめげずに言葉をつなげていく。その呼吸はかなり乱れ始めて、みつきの足が一成を必死に追いかけ始めていた。
「ね、カズ、雪の、最初の、一個って、みたこと、ある?」
「最初の…一個…?」
一成はその不思議な問いかけに足を止めた。そしてようやくみつきは息を整える機会を得て、いぶかしげな一成に向かってうれしそうに双眸を崩した。
「雪がひらひらって降りてきた、その最初の一個って見たことある?」
「さぁ…気にしたことねぇな…」
「え~、なんでぇ」
「なんでって…そんなこと、お前に言われるまで考えたことなかったぞ」
雪が降り始めたときの最初のひとひら、そんなものを見たという記憶もなければ、そんなものを意識したことすらない。一成は今にも雪が落ちてきそうな暗闇を見上げながら、日が落ちてぐっと気温の下がった住宅街の静けさに小さく身震いした。
「だって雪降りそうな時ってずっと窓から外みるでしょ?最初の一個見たくってがんばるんだけど、いっつも目を離したときには降り始めちゃってるんだよねぇ」
なんでかなぁ、みつきは誰にともなく呟くように首をかしげて空を見上げた。まるで天に向かって物を問うようなそぶりに、一成は肩をすくめて口を開いた。
「おい、ほんとに寒いんだから行くぞ」
一成はみつきを引っ張って先を行こうとしたけれど、みつきの手に逆に引かれて足を止めた。
「ね、カズ。最初の一個、一緒に待って。今日は見れそうな気がするんだ」
みつきは本当にそう思っているのだろう、瞳を輝かせて空を見上げて微笑んでいる。一成は体の芯まで冷え切っていきそうなこの寒空の下で、いったい何時間待たされるのか考えるだけで恐ろしいみつきの誘いを即座に拒絶した。
「冗談だろ」
「え~、いいじゃん、お願い、ね?」
「バカなこと言うな、こんな寒い日にそんな事出来るか」
天気予報はかなりの高確率で降雪予報を出していた。通例ならば数センチの積雪であらゆる交通機関が麻痺するこの地方で、例年にない大量の雪が夜通し降り続くそうだ。それほどの寒波が来ているというのに、目の前のみつきは寒さよりも雪の最初の一個を見たいがために凍死するつもりなのだろうか。一成の否定と拒絶にみつきはむっと頬を膨らませると、その場から一歩も動かない覚悟を決めたかのように立ち尽くした。
「できるもん」
「できねぇよ…いいから歩け」
一成が軽く引いただけではみつきの足は動きそうにない。思いの外強固に足を踏ん張るみつきの靴とアスファルトがずりずりと不快な音を立て始めた。
「や~だ~」
「みつき…」
一成がみつきを引きずることを一旦諦めると、みつきは今度は膝を抱えて座り込んでしまった。
「やだっ」
「ったく…じゃあいい、俺は帰る」
一成は動く気配のないみつきをその場に置いてきびすを返す。その方向は一成の自宅ではなくみつきのマンションに向かっている事に二人は気付いていなかった。けれどみつきは置いてけぼりを食らった犬のように、慌ててその背中を追いかけた。
「やだよぉ、カズ、置いてかないでっ」
涙ながらのみつきの呼びかけに一成はようやく足を揺るめたけれど、みつきは離れてしまった一成との距離を縮めようと必死に追いすがっていた。そして、やはりいつものようにどこに足をかけたのか分からないほど平らな場所にも関わらず、みつきは勢いよくアスファルトに倒れ伏した。
「みつき…」
毎度のことながら派手な転びように、一成は呆れて物が言えない。けれど一成はみつきの泣き声が住宅街の静寂を破る前にみつきを抱き起こすと溜め息まじりにその髪を撫でた。
「大丈夫か?」
夜のしじまにみつきの小さくしゃくり上げる声が溶けていくのを静かに待ちながら、一成はまたため息をついていた。なんでこんな子供っぽいのに惚れてしまったのか、考えても仕方ないけれど一成は惚れた弱みで結局は突き放せないみつきの涙を親指でそっと拭いあげた。
「みつき、もう泣くな。最初の一個なら家からゆっくり待てばいいだろ?今日はほんとに寒いんだから、こんなとこで雪が降ってくんの待ってたら俺もお前も風邪ひいちまう」
わかるだろう?一成は小さな子供に言い聞かせるようにゆっくり語りかけながら、ぐすりと鼻をすすり上げたみつきを見つめていた。
「うん…じゃあ、一緒にうちで待ってくれる?」
「え…」
このみつきのおねだりに、一成は洋平のセリフがフラッシュバックしたのを慌てて振り払った。みつきの体のどこにもリボンはない。けれど一成の頭の中の妄想が健全な男子高校生のものと同じ種類のものであること、そのいかがわしい想像に一成は勝手に頬を赤らめていた。
「カズ…?」
「いや…ほら、それは…ちょっと…なんだ…だめだろ…?」
「だめ?」
みつきの瞳は先ほどの涙に潤み、一成の動揺を笑うこともからかうこともなく首をかしげている。女を知らないわけでもないのに一成はそのみつきの瞳に引き込まれるように思わずゴクリと喉を鳴らしていた。
(―これは…なんだ…?まさかの洋平の予想が当たったってことか…?)
タイミングも大事なら勢いが大事なこともある、一成はもうすでにみつきの瞳から目を離せなくなっていた。ここが思いがけず到来した最大のチャンスとばかりに、一成が高鳴る鼓動に愛おしさを乗せてみつきの肩を引き寄せた。
「みつき…」
一成が頭で考えるより先にみつきの唇に吸い寄せられていくと、みつきは一成を見つめながらその瞳を輝かせた。
「最初の一個っ」
みつきは喜びの声とともに白いひらめきに小さな手をさし出した。そのひとひらはみつきの手のひらに舞い降りるとすぐに溶けてかき消えた。そうして溶けてしまった最初の一個をみつきは幸せそうに見つめ、そしてその瞳のまま一成を振り向いた。
「カズ、見たっ?最初の一個だよ、ねっ?そだよねっ?」
一成はみつきの嬉々とした声音が住宅街の闇に響くのを耳にしながら、つい一瞬前までの邪な自分の行動に自嘲した笑みを洩らしていた。
「良かったな…最初の一個」
一成はすっかり脱力した自分の妄想に苦笑いしながら、溶けてしまった雪を惜しむように手のひらを見つめているみつきの頭をくしゃりと崩した。
「ほら、ちゃんと見れたんだから帰るぞ」
「うん」
今度はみつきは一成の手に引かれるまま素直に歩き出した。みつきの誘い、あれはほんとに最初の一個が見たかっただけなんだろう、一成はみつきの計り知れない思考の片隅に己がどんなポジションにいるのか大きな不安に苛まれた。




