第7章 寝ぐせ姫の最初の一個 (2)
街のあちらこちらのウィンドウが赤やピンクのハートで飾りたてられ、テレビでもバレンタイン特集が多く組まれていた。バレンタイン本番を明日に控えての雪予報に、街中が浮き足立っていた。今にも雪が落ちそうな寒空の下を、みつきはマイスナから一成の家に向かって足取り軽く向っていた。
「みつき…」
一成は玄関先へのみつきの奇襲に目を丸くしていた。みつきは驚き瞬く一成に向かって白い紙袋を差し出していつもと変わらぬ声音で微笑んだ。
「やほっ、カズ。一日早いんだけど、受け取ってください」
「え…」
一成は目の前に差し出された白い紙袋と、みつきの伏せられた頭を交互に見つめて戸惑いを露わに硬直していた。バレンタインには一日早く、ムードもへったくれもない自宅の玄関先、戸惑うなという方が無理な話だ。
「あらあら、みつきちゃん。いらっしゃい。一成、何してるの、上がってもらいなさい」
玄関先で固まったまま動かない二人に一成の母の声が優しくかけられた。みつきは一成の母のほわりとした声音に微笑んで、次いでぱたぱたと駆けつけた沙紀に小さく手を振った。
「こんばんは、突然お邪魔してごめんなさい。沙紀ちゃん、こんばんは」
みつきは交互にぴょこんと頭を下げて困り果てた様子の一成に首をかしげた。
「カズ、これ受け取ってくれないの?みんなで食べてもらおうと思って、一生懸命作ったんだよ」
「みんな…で…?」
「そだよ、沙紀ちゃんとカズのお母さんとお父さんと、カズ」
一成はみつきが指折り数える自分の家の家族構成の正確さになんと応えてよいか分からない。間違っているわけではないのに、なんだか間違っていると感じるのは、一成の思惑とみつきの思惑がかみあっていないせいかもしれない。
「そうか…みんなで、な…」
みんなで食べろと渡された白い紙袋の中身はなにか、そんなことはどうでもよかった。茫然自失している一成をその場に残し、母と沙紀がみつきを一成の断りもなくリビングにさっさと通していく。一成は誰に聞かれる懸念のないところまで皆の姿が遠ざかると、大きなため息をついて頭をかいた。
「なんだよ…そういう意味かよ…」
玄関先に置かれたみつきのもう一つの大きな紙袋には、白い包装紙に包まれた無数の小箱がひしめいている。不特定多数のそれらに比べれば一成の手の内にある白い紙袋はその大きさといい数といい別格なのだと分かる。ただし、それは一成の家族という複数に向けたみつきの想いのたけだった。一成はその事実にかなりな落胆をもってみつきの消えたリビングへ肩を落として足を進めた。
みつきが一成に渡した紙袋の中身はコーヒーゼリーだった。ご丁寧に沙紀の分だけは苺のムースが用意されている。そのできばえを見ればこれが春香の手によるものであることは明らかだ。けれど、多少なりとも手伝ったのだろうみつきの手には真新しい絆創膏がいくつか貼られていた。一成は箱の中身に感嘆の声を上げる沙紀の頭をくしゃりと撫でて頬杖をついたまま微笑んだ。
「よかったな、沙紀。おまえのは特別だ。みつきにちゃんとお礼しろよ?」
「うん。ありがとう、みつきちゃん。すっごいおいしそう」
「あは、ありがと、沙紀ちゃん。でもね、これほんとはあたしの叔母さんが作ってくれたの」
みつきは自ら春香の作であることを暴露しながら、少し申し訳なさそうに沙紀と一成へ視線をむけて照れ隠しにぽりぽりと頭をかいた。そのおじんくさいそぶりに一成は更なる落胆を隠せない。みつきがおじんくさいからでなく、その落胆はこのバレンタインの贈り物がみつきの手作りでもないという点に向けられていた。
「そんなことだろうと思った」
「えへへ…」
みつきが頭をかくその指の絆創膏が何のせいか、もうそんなことはどうでもいい。どうせなんでもないところで指を切ったか、火傷をしたかしたのだろう。一成は春香の心づくしのコーヒーゼリーをつつきながら、また漏れそうな溜め息を必死に飲み込んだ。
「沙紀、みつきちゃんにあれ、差し上げたら?」
「あっ、そかっ。みつきちゃん、ちょっと待っててね」
沙紀は台所からの母の呼びかけに妙案を思いついたように瞳を輝かせ立ち上がった。その手には苺のムースを食べるためのスプーンが握られたままだった。
「沙紀、行儀悪いぞ」
一成の制止も届かないほどすばやく台所に走り出した沙紀は、途中で兄のお小言に罰が悪そうに振り向いた。
「ごめんなさ~い…あのね、みつきちゃん、ちょっと一緒にこっち来て」
沙紀はスプーンを背中に隠して、もじもじとみつきを小さく手招いた。みつきがその沙紀の招きに興味津々で立ち上がるともう一成の溜め息は隠せない。台所に集まった女達は一成などそっちのけで互いを褒めあう事に花を咲かせ始めた。
「すご~い、沙紀ちゃん、これ作ったの?」
「えへ、私もお母さんにいっぱい手伝ってもらったけど」
「え~でもすごいよぉ。お母さん、お菓子もお料理も上手なんだね」
「みつきちゃんのおばさんもすごいわぁ。さすがお店なさってるだけあるわね」
一成は台所から漂う甘い香りに包まれて苦々しい思いでコーヒーゼリーを食べつくした。いつまでも終わりを見せそうにない会話を背に、一成はリビングのテレビをつけて無意味にチャンネルを回していく。どこもかしこも面白くない番組ばかりだ、一成がちっと舌打ちしているとその向こうから沙紀の小さな手が現れた。
「お兄ちゃん、いつもありがとう」
沙紀の手には沙紀が日中苦心惨憺していたクッキーが盛られた皿が握られていた。毎年沙紀が用意するお菓子だけは一成もありがたく食べる事にしている、愛らしいアイシングが施された香ばしいクッキーに一成はふっと微笑んだ。
「沙紀…ありがとな」
一成の微笑みに嬉しそうに隣に座った沙紀が、今度はきちんと座って苺のムースに向き合って春香の心づくしを堪能していく。みつきはその隣で沙紀に包んでもらったのだと、ラッピングを施されたクッキーを掲げて幸せそうに笑っていた。
(―まったく…おままごとみたいなバレンタインだよな…また洋平になんて言われるか…)
洋平が明日言うだろう嫌味を思い浮かべながら一成は母親に出されたコーヒーに手を伸ばした。そこから知らずともれたため息は、先ほどよりはだいぶ明るい意味合いのものに変貌していたけれど、一成の落胆を拭うにはまだ至らなかった。
「あのな、みつき、今度うちに来る時はちゃんと電話しろよ」
一成は空に垂れ込める雪雲すら見えないほどの暗闇の中、街灯に照らし出された道を歩きながら不満げな声をあげた。みつきの大きな紙袋を片手に、もう一方の手でみつきの手を引いて歩いていると、またしても諦めきれない思いがこみ上げてくる。けれど、一成の不満に満ちたそぶりに、みつきも同じように口を尖らせていた。
「え~、だって明日はカズに近づけるかわかんないでしょ?毎年すごいんだよって千秋ちゃん言ってたもん。それにね、このほうが面白いかなって思ったんだよね」
「バカか、お前は…俺がいなかったらどうするつもりだったんだよ」
「う~ん、沙紀ちゃんにも会いたかったからいいんだもん」
みつきの行き当たりばったりの行動に一成はいまさら驚くこともないけれど、大きな落胆は隠せない。毎年、毎年、バレンタインもクリスマスも、自分の誕生日でさえも一成にとってはただ億劫なだけの3大イベントだった。勝手に贈りつけられるプレゼントをまとめて捨てるだけでも面倒くさい、いっそのこと最初からゴミ箱を設置してやろうかと何度も思った。さすがにそれは心に思うだけに留めていたけれど、毎年この時期が近づくと苛立つばかりの一成も今年だけは違っていた。今年はかなりの期待を持ってたった一つを待っていた。
(―期待するだろ?普通…)
一成はピンクのモコモコとしたバックを前後に振りながら鼻歌まじりに空を見上げるみつきを横目に、またため息をついた。
あれは2週間ほど前だったか、街中だけでなく学校中もなんとなくそわそわとし始めた頃、補習の合間の休憩時間にお菓子の本をめくりながらみつきが一成に微笑んだ。
「カズは甘いの嫌いだから、チョコじゃないのあげるね」
みつきの言葉は一成の胸を騒がせた。何をくれるのかそういうことではなく、そこに込められるみつきの気持ちに勝手に期待していた。
(―勝手に期待したのはこっちだけど…これはかなり予想外だったぞ)
一成は今日のこの日の訪問と、その内容の意外さにみつきの計り知れない行動力が恨めしい。みつきのことを分かっているようで分かっていなかった自分に対しても溜め息が漏れ、洋平に囁かれた言葉が一成の胸に痛かった。
「みつきちゃんがカズだけにくれるバレンタインかぁ…楽しみだなぁ」
まるで自分が貰うかのように洋平は胸に手を当て、一成のうわついた足取りをちらりと盗み見しながら呟いた。まるで独り言のように呟かれたその言葉に一成は心の内をすかし見られたように一瞬どきりとしたけれど、同時に今年のバレンタインの特別感に胸が弾んでいた。
「まさか、自分にリボン巻きつけて『カズにはあたしをあ・げ・る』とかだったりしてぇ」
くふふっと自分の思いついたセリフに自分で照れながら、洋平が一人ソファの上で悶絶していた。それを浩一郎はかなり気持ち悪そうに見つめながら、その一方で肩をすくめていつもは無骨なその口元を緩めた。
「早瀬だったらリボンが絡み付いて転んでそうだな」
「うは、浩。確かにそうかも」
「…あぶないよ。カズ、やめさせて」
浩一郎の珍しい軽口に晴彦はほんとに心配そうに眉根を寄せて、一成を見つめていた。そう言われても一成にはどうしようもない。いつもなら慌てて否定するような会話にも、晴彦の懇願にも、一成はソファに横になりながら参考書を広げるだけの余裕を見せていた。
「好きに言ってろ」
今年だけは外野の勝手な盛り上がりに翻弄される訳にはいかない。一成は努めて冷静に参考書に視線を向ける振りをしながら、にやける口元をかなり必死に隠していた。なぜ確信していたのか、みつきが自分には特別な何かを用意してくれるだろうと。
(―ただの阿呆じゃねぇか)
一成は手袋をはめたみつきの小さな手を引きながら、白く吐き出されていく吐息の中にみつきへの言いようのない感情を載せて空に放った。




