第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(11)
「先生、捻挫したみたいなんです」
保健医は元に付き添われてきた常連の足を見るなり愉快な声をあげた。
「お~、早瀬、お前こりゃ結構いったな。どうせ、ぼ~っと走ってたんだろ」
「いや~、お恥ずかしい」
みつきは馴染みの保健医に中年男のような口調で軽口をたたきつつ頭を掻いていたけれど、みつきの右足はすでに大きく腫れあがり熱を持って疼き始めていた。
「お前は本当にどんくさいな。それに泥だらけだ。砂場で泥団子でも作ってたのか」
「え~せんせぇ…グラウンドに決まってるじゃん、今日は体育祭だよ。砂場なんて行ってないよ」
泥だらけの運動着、膝と手のひらの真新しい擦り傷、保健医の嫌味に本気で膨れさせた頬には半乾きの泥がこびりついている。保健医はどこをとっても立派な小学生にしか見えないみつきの姿に溜め息をつきながら、あいも変わらず盛大に跳ねたクセ毛をくしゃりと撫で上げた。
「はいはい…お前は素直だね」
「む~、なんかせんせの言葉、いやな感じがする」
「おっ?分かったか、ちょっとは成長したなぁ」
保健医はみつきのむくれ顔に成長を感じながら微笑むと、手早くみつきの足の具合を観察しそっとその足を下ろした。
「とりあえず足は冷やしたほうがいいな。手当てはそれからだ。おい、坂田、氷取れ」
保健医は冷凍庫のそばに立つ元に声をかけてから、自分は反対方向に足を進めると一成の眠るベットの脇を力任せに蹴飛ばした。
「おい、森、起きろ。お前のお姫さんが来てんぞ」
一成はベットを蹴飛ばされた不快な振動に眉根をしかめ、カーテンを引き開けられた眩しさに瞳を瞬いた。何の前触れもない不愉快な目覚めへの怒り、やっと訪れた安らかな睡眠時間を打ち壊された憤り、一成はそれらを隠すことなく保健医を睨み上げた。
「あぁ?んだよ…この暴力保健医、ちったぁ優しく起こせっ」
「おら、さっさと起きろっ、俺の城で熟睡してんな」
一成がまだ寝ぼけまなこで頭を掻きながら見上げたその視界に、にやけ面の保健医がうつりこんだ。一成は舌打ちしながらベットの上に体を起こすと、優しさの欠片もない保健医に怒鳴りつけた。
「こんなかてぇベッドとエロ本しかねぇくせに、どこが城だっ」
「おお、元気じゃね~か。そんな口のきき方しててい~のかな?おめえのお姫さんが捻挫して来てんぞ」
ほら、あっち見ろと、憎しみすら感じる一成の視線を無理矢理みつきに向かってひねりあげた。そうされて初めて一成の嫌そうに細めた目と、みつきの丸くした目が合うと、元は氷を取り落とすほどに驚き声を失った。
(―みつき…と、元……?)
一成は半分寝ぼけたままの頭を一撃で目覚めさせる最悪な顔ぶれに思わず舌打ちを洩らすししかない。けれどそれなりに穏やかだった保健室の空気が緊迫したものに変わったにもかかわらず、保健医は通常と変らない声音で話し出していた。
「森、さっき大友がここに来てな、好きってどういうことですかとぬかしやがった」
「浩が…?」
一成なりに友人の問いかけに思うことがあるのだろう、ぎりぎりと音がしそうなほど奥歯を噛み締めていた憤りが一瞬罰の悪いものに変わる。保健医はそんな一成の微妙な変化に畳み掛けるように友人思いの堅物を労い言葉を重ねて口を開いた。
「ああ。ずいぶん頭悩ませてたみてぇだったぞ。あんまり大友の気をもませんなよ?あのままいったらあいつは確実にはげるぞ」
「うるせぇな」
保健医の飄々とした物言いに毒づきつつも、一成は元もみつきもその視界に入れないよう努めていた。浩一郎の進言どおり事を荒立てずに解決するためにはこれが現段階で一成ができる精一杯のことに思えた。けれど、元はそんな一成の配慮も懸念も蹴散らして、全身にたぎる怒りに任せ一成の視界にずかずかと足を進めていた。
「何言ってんだよ…」
「なんだと?」
浩一郎の懸念も保健医の注進も元の前には何の意味もない。一成の視界に侵入してきた元を睨みあげた一成の左頬に、元の怒りだけをのせた拳がうなりをあげていた。
「こんなとこに逃げてんじゃねぇっ、ふざけんなっ」
まさかの不意打ちに脱力していた一成の体はそのまま軽く飛ばされるように再びベッドに沈んでいた。一成の体を受け止め、固いだけのベッドがきしんだ音を立てていた。
「なんだぁ、お前ら…白熱してんなぁ」
保健医の間抜けな声が一成と元を余計に煽りたてる。保健医は二人の冷たい視線を一身に受けると、また頭をガシガシと掻いてその身を翻した。
「はいはい、余計な口は挟みませんよ」
保健医は面倒くさそうに顔をしかめると、元の唐突な行動にあんぐりと口を開いたままのみつきの足を強引に氷水に突っ込んだ。
「冷たっ…」
みつきが水の冷たさに思わず声をあげると、保健医は苛立ったように舌打ち混じりに毒づいた。
「どいつもこいつも、頭悪いな」
「せんせ、冷たいよ」
「うるせぇな、捻挫は最初が肝心なんだ。大人しくそこで足冷やしとけ」
保健医はみつきのしかめた顔に言い残すと、激しい感情をほとばしらせる元と一成の首根っこをつまみ上げ廊下へ放り出した。
「やるなら外でやれ」
ぽいっと放り出された二人の耳に、廊下の向こうからばたばたと足音が響いた。浩一郎を先頭にその後に興味津々な洋平と面倒くさそうな晴彦が続いていた。
「元っ」
浩一郎は目の前で一成が口はしに血をにじませているのに、一成の心配などするそぶりも見せず、立ち尽くしている元にまっすぐに駆け寄った。
「元っ、大丈夫かっ?怪我はないかっ?」
「は…はあ…」
そういうだけが精一杯そういう感じで、元は浩一郎に体をはたかれながらただ呆然とするばかりだった。
「なぐられたのは俺だっ」
一成の怒声に浩一郎はようやく一成の顔に出来た拳の痕を目にとめると、珍しく取り乱した自分を恥じるように頭をかいた。
「ああ…悪い、悪い。つい元がやられたんじゃないかと思って…」
「カズを殴るなんて元も命知らずだねぇ」
「…無事だったね…元…」
誰一人として怪我の心配をする気配も無い心無い友人の声に顔をしかめ、一成は傍らに立ち尽くす元を一瞥した。
「おい、元ちょっと来い」
一成に顎で促され薄暗い廊下を中庭に向って歩き出した二人の影は、互いの影が重なることすら嫌がるように距離を保って遠ざかった。浩一郎はその影を追いながらこの展開を愉しむかのような洋平の軽々しい足音に鋭い視線を投げかけた。
「浩、こうなっちゃったらとことんやらせてあげなよ。中途半端は一番よくない」
洋平の声はまるで楽しいショーを見に行くような軽快な響きを持って、浩一郎の心にこだましていた。




