第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(12)
午後の陽射しが降り注ぐ中庭は、遠くから聞こえる体育祭の余韻に満ち、穏やかな日常の中で、ここだけが切り取られた空間のように冷え切った風を巻き起こしていた。元は仕切り直された気まずさに思わず飲まれそうになりながら、一成を睨みあげ拳に力をこめていた。
自分から売りつけた喧嘩を前にすごすご引き下がるわけには行かない。みつきを手に入れるためにもここで自分が負けるわけにはいかなかった。元はいまできる精一杯の挑発を一成に向けながら、ともすればこの場にひれ伏して謝罪してしまいたくなる自分の弱さを押し隠していた。
「なんであんなとこにいたんだよっ?あいつは…みつきはあんたが見てくれてるって、あんたが一緒に写真撮ってくれるって、ずっと…ずっとあんたを信じて待ってたんだぞっ?」
一成はみつきとの約束を違え、みつきの信頼を裏切った自身の弱さに口を開くことも出来なかった。元の嫌悪と憎悪を乗せた視線、その奥にあるみつきへの想いは揺ぎ無い。みつきを好きかどうかすらもあやふやな自分に比べて、元のひたむきな想いがまっすぐに一成の胸に突き刺さる。
「なんでみつきを泣かせんだよっ、なんでっ…」
一成への憤慨と悔しさを乗せた元の声がかすれていく。握り締めた拳はみつきの悲しみを乗せ、食いしばった奥歯が軋んだ音を立てていた。
「お前には…関係ない」
一成の黒い瞳は物言わぬ中庭の石畳を睨みつけ、わななく唇から漏れ出した声音が苦しみに掠れてしまっていた。一成は悔し紛れに元に叩きつけられた口端の鮮血を親指で拭いさることで体裁を取り繕うしかできない。
「関係…ない…?」
元は一成の伏せた瞳を睨みつけ必死に押さえ込んだ感情で奥歯を噛み締めた。一成の言葉は元の怒りも悔しさも、みつきへの想いすら踏みにじるように元の胸にこだましていた。
元はみつきに出会う前から一成への強い憧れを抱いていた。気高く崇高なまでの存在感に、密かに憧れ尊敬の念すら覚えていた。みつきと知り合うまでは森一成という男は口を利くことすらかなわない雲の上の存在だと信じて疑わなかった。
それが今ではみつきを巡るライバルにまで昇格できた。敗色は濃厚でもこうして対峙することも出来ている。元なりに今できる精一杯の思いをぶつけてきたはずだ。それを無関係だと一言のもとにねじ伏せられて、元の拳が怒りにわなないた。
「関係ないことあるかっ。俺はみつきが好きなんだ。あんたがみつきを泣かせてばっかなら俺がみつきをもらうっ」
一成は自分の挑発に乗ったはずだ。元が知る一成という男は買いかけた喧嘩を途中で放棄するような情けない男ではなかったはずだ。元はみつきをとられたくない思いと同時に、一成に認めて欲しい一心で叫びあげていた。
「みつきを…もらう…?」
「ああ、そうだ。あんたには幻滅した。好きな女に好きって言うこともできないあんたにはみつきを手に入れる権利もない」
「なんだと…?」
元の侮りに一成の漆黒の双眸が色を成した。深い闇を称えた一成の冷たい瞳、鋭く尖った視線が元の喉元に突き刺さる。それでも頭に血が昇りきった元の怒りを怯えに変えることできない。いつもならばこうして睨むだけで足がすくんでしまいそうな一成の瞳の冷たさにも、元の熱い思いがたぎり続けた。
「好きなんだろ?あんたもみつきが好きなんだろっ?」
普段は人の良さだけが取り柄の元の双眸がまるで別人のように一成に挑み続ける。一成は元のつぶらな瞳と極々平凡な顔だちを睨みながら一瞬息を呑んでいた。
元のように普通に生れ落ちていたら自分の人生はもっと簡単だったかもしれない。顔かたちが整っていることなど何の意味も感じてこなかった。むしろ厄介なことばかりを引き起こし、まともな学校生活すら送れない足かせのようなものだった。自分が穏やかに過ごしていくには人が集まる場所を避け、人と関わることを避け、あらゆることを蹴散らして歩くしか選択肢がなかった。元のようにただ普通であるということがどれだけ羨ましかったか、一成の心の内の叫びなど元には分かるはずもない。
(―普通がよかった。その他大勢の中に埋もれてしまえる人間でいたかった)
元にはきっと分からないだろう。一成が望んでも手に入れられないものを、元や多くの人が手にしている事を。それを言ったところで誰にも分かってもらえないだろう事は一成が一番よく分かっていた。
「お前に俺の恋愛相談なんか頼んだ覚えはない。俺がみつきを好き?だったらどうした。それこそお前には関係ねぇ話だろ?それともお前、俺からみつきをとれるとでも思ってんのか?」
一成だけが知りえる苦しさを乗せた声音はたまりに溜まった鬱憤を乗せながら、その実抑揚を欠いていた。一成の奥底にある冷え冷えとした感情はあまりに冷たく元に響いていた。
みつきへの熱い想いも凍らせるような声音の冷徹さに元はしり込みしそうな自分を必死に奮いたたせていた。そうして踏ん張っていなければもうその場にいることすら出来そうになかった。けれど元は顔を覗かせ始めた己の情けなさを振り切るように必死に叫びあげていた。
「みつきはあんたのものじゃねぇだろっ。好きだって言うことも出来ないくせに偉そうなこと言うなっ」
元が必死に叫び上げた感情が一成の心を突き上げる。人を好きになるということ、そんな簡単なことも出来ない自分への鬱憤が元への憤りに取って代わっていた。
「うるせぇっ、分かったようなこと言ってんじゃねぇっ」
一成の怒声とともに元は胸倉を掴まれるとそのまま冷たい壁に叩きつけられていた。元が背中に感じた衝撃は小さな呻きとなって漏れ出した。
「お前に俺の何が分かるっ?みつきの何が分かるってんだっ?」
一成が元を叩きつけた腕が筋張った首元を締め上げると元は声も出せない。苦しいだけでなく一成への畏怖の念が元の喉元で言葉を滞らせていた。
「形成逆転、さっすがカズ。男にも手が早いんだねぇ」
洋平は一成と元の二人が一触即発の雰囲気をかもし出しているにも関わらず、それを囃し立てるように小さく手を叩いた。
「洋平、静かにしろ。聞こえないだろうっ?」
「だからもっと近く行こうって言ったじゃん。ね、もっとあっち行こうよ」
洋平はいい席をとりそこなった観客のように不平を洩らしつつ、それを引き止めた浩一郎の袖を引く。浩一郎はなにを話しているのか細かいことまでは耳に出来ないくらいの距離をもどかしく思いつつも、時おり響く怒声に瞳を眇めていた。
「お前がしゃしゃり出て話を複雑にしそうだからダメだって言ったんだ。カズも元もきちんと話をさせようと言ったのはお前だろ?」
「そうだけどこれじゃ意味ないよ…僕は二人の言い合いが聞きたかったんだよねぇ」
洋平は中庭を吹きすぎていく乾ききった風に栗色の髪をなびかせて口を尖らせた。まるで子供のように拗ねた具合と、その心の内の悪どいまでの算段に浩一郎は深い溜め息を漏らした。晴彦は洋平の向こうで大きな欠伸を繰り出していた。
「洋平…お前って奴は…」
洋平が小柄な体ながら一成と一緒になって喧嘩沙汰を楽しむ傾向にあるのを浩一郎はよく知っていた。夜の街で好き勝手に遊ぶ一成と洋平の喧嘩の痕跡に浩一郎は何度ため息をついたことか。両手では足りないだろうその荒んだ日々の思いが浩一郎の胸に飛来する。
浩一郎が夜の街に遊びに出ることはごく稀だったけれど、週明けの学校で顔を合わせると大なり小なり二人が怪我をしていたのはそう昔のことではない。しかし一成も洋平も自分が負った怪我の倍以上は相手に怪我をさせていたのも事実だ。その善悪はなんとも言えないけれど、ただこうして遠巻きに見守りながら、浩一郎は一成よりも明らかに喧嘩慣れしていない元の身を案じていた。
浩一郎が溜め息まじりに見守る中で、元の胸倉を掴みあげた一成の片腕が今にも元に振り下ろされようとしていた。
「おっと、とうとうカズも殴っちゃうかな?」
「なにのんきなこと言ってんだ」
洋平も晴彦も事態を深刻に捉えている気配はなく、浩一郎は実況中継でも始めそうな洋平の肩をつかんで急きたてた。
「殴り合いになる前には止めるぞっ。洋平は元を止めろ、カズは俺が抑える」
浩一郎が今にも飛び出して行きそうな口調で洋平を急かすと、あれほど近づきたがっていた洋平は一歩たりとも動く気配を見せなかった。むしろ浩一郎を引き止めるようにその身を引くと肩をすくめて小首を傾げた。
「浩、だからさっきも言ったでしょ?こうなっちゃったらとことんやんなきゃどっちも収まりつかないって」
「しかし…」
洋平の進言ももっともな気がするけれど、ここは夜の街ではなく健全な学び舎だ。グラウンドでは体育祭も終盤を迎えて盛り上がりを見せている。中庭まで届く歓声が先ほどより近くに感じられるほど高まっていた。
「大丈夫だって。元だって一発くらいは耐えられるでしょ?みつきちゃんのためだもん」
「そういう問題じゃないだろっ?ったくお前、この状況を楽しんでるんだろうっ?」
洋平は浩一郎の逡巡に小首をかしげて、逞しいその肩に軽々しいそぶりで手を乗せた。
「楽しんでるよ?いいじゃん、喧嘩。僕も久々だなぁ、わくわくしちゃうよ」
「洋平…」
浩一郎の眉根に寄せたしわが深く刻まれても洋平はそんなことに臆することも怯むこともない。軽薄なまでの物言いに浩一郎の懸念は強まるばかりで、洋平は力の抜けない浩一郎の肩を励ますように何度もたたいた。
「大丈夫、大丈夫。浩の気持ちも分かるけど、もとをただせば元から売ってきた喧嘩なんだよ?一発二発は殴られる覚悟くらいあったはずだよ。そうじゃなきゃあのカズに喧嘩なんかふっかけられないって」
洋平がいつもの調子で浩一郎を丸め込もうとする横から晴彦は欠伸の後の涙を指先で拭いぽそりと呟いた。
「僕は顔に一発、お腹に二発が限界だと思う…」
「いい読みだね、ハル。じゃあそれ以上は止めてあげようか?元がぼろ雑巾みたいになる前には救い出してあげなきゃね」
洋平が晴彦の肩に乗せた手には不思議な事に力が込められていた。まるでよろしく頼む、そういう無言の圧力をかける洋平に晴彦が一瞬狼狽したように瞳を泳がせた。
「僕は元を…」
止める、そう言いかけた晴彦の声は珍しく慌てているように浩一郎の耳に届いた。浩一郎よりは一成たちの喧嘩をその目にした回数が多い晴彦はさすがに怒り狂う一成を止める事に躊躇していた。けれど洋平は晴彦の宣言にわざとらしく目を見張ると、少し声を翻らせて口を開いた。
「ハルはカズに決まってんじゃん。僕とカズの体格差で僕がカズをとめられると思う?僕がカズをとめるならカズを殴って気絶させなきゃ無理だね」
お祭り好きな洋平らしい、これまでもこんな風に嘯いては一成と一緒になって騒ぎを大きくしていたに違いない。浩一郎は一成のこれまでの怪我の半分が洋平の責任と言っても過言ではないだろうと思えた。そして同時に一成を殴って気絶させる、浩一郎にだって難しそうなことも洋平なら簡単にしてのけられそうな気もしていた。
「それだけできれば十分だ…」
のんきな口調で空恐ろしいことを言い合う友人の姿に浩一郎はすっかり毒気を抜かれてため息をついていた。視界の端では一成と元の睨み合いが佳境を迎えているところだった。




