第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(8)
扉一枚隔てた向こうに届かないよう声音を落としながら、浩一郎が洋平に語る口調には熱がこもっていた。
「洋平、カズが自分の気持ちに気付けていたら、今頃あんなに機嫌が悪くなるわけが無いだろう、焦らせるな」
「だから、僕は何もしてないでしょ?カズが勝手に泥沼にはまってるだけじゃん」
浩一郎は果てのない会話にはまり込むような思いで、洋平にため息をついた。
「お前…いったい何考えてるんだ」
「僕は直感力で生きてるからね、何って言うほど考えてないよ。浩こそ、あんまり頭悩ませると、はげちゃうんじゃない?」
冗談とも本気ともつかない洋平の声音に、浩一郎は頭を抱えると深い吐息をつく以外できなかった。
「う~ん、やっぱカズなんか変だね、具合でも悪い?」
みつきは一成の顔色が優れない事にようやく首をかしげて、一成の額にぴたりと手を押し当てた。だいじょぶ?そんな風に覗き込むみつきの瞳が純粋すぎて一成には眩しすぎた。
「いや…別に…」
一成がまっすぐなみつきの瞳から目を背けると、そのそっけない声音にみつきが口を尖らせた。
「そかなぁ…元ちゃんも最近変なんだよね…ね、カズなんか知らない?」
みつきの不用意な発言、それは今に始まったことではない。けれど元の名前がみつきの口から飛び出した、ただそれだけで一成がどうにか支えていたものがいとも簡単に崩れていった。
(―元、元、元…そんなに元が気になるかっ?)
一成は握り締めた拳に力をこめて、目の前の理不尽な現実を打ち壊したい感情に駆られていた。決して好意的とはいえない元の視線、その不快な視線の意味に思い当たることがあるのなら、一成としても真っ向から受け止める覚悟も度胸もあるつもりだ。けれど元に何をしたという覚えもなければ自分に落ち度があったとは思えない。明快な理由のないまま向けられる視線への不快感は、一成になんとも言えない苛立ちを与えていた。
「俺が…知るわけねぇだろ…」
自分の声音に含まれた理不尽な怒気にみつきの顔が曇っても、今にも泣き出しそうになっていても、一成の内側は大切な要を失い荒れ果てていた。理性は抑えろと叫んでいる、けれどそれ以上に一成の体のほとんどの部分があらゆる感情を叫び出せと震え始めた。
元の視線に対する憤りだけでなく、あらゆることへの理不尽さと鬱憤、己の感情すらも見出せないもどかしさ、全ての憤りがその矛先を一成の外側を目指して一直線に駆け上がっていた。
「俺が元のことなんか知ってるわけねぇだろっ。黙って聞いてれば好き勝手いいやがって、そんなに心配なら元に聞けばいいだろっ」
「カズ…?」
みつきには自分の何が悪くて一成が怒り始めたのかそれが分からない。あまりに突然であまりに激しい一成の感情の流れに巻き込まれ、みつきはただ一成を見つめる瞳を潤ませる以外出来ない。しかし一成にはみつきの困惑も驚愕も分かりながら、もう己の理性という最後の砦が壊れてしまっていてはこの先の言葉を押さえ込めなかった。
「早く行けっ、行っちまえっ」
一成から溢れ出した奔流が扉で隔てられていた浩一郎をも飲み込むように襲い掛かった。浩一郎が耳にした一成の声は怒鳴り声のはずだったのに、涙に濡れて苦しい思いを叫びあげていた。
みつきは一成の生み出した激流に呑まれるように部室の扉に何度も体をぶつけながら走り出していた。
「早瀬っ」
浩一郎が涙に濡れた背中を呼び止めようと発した言葉に、何の力もないことはよく分かっていた。それでも呼び止めずにはいられないほど、その背中には苦しみが溢れていた。みつきはそんな浩一郎の呼びかけに振り向きもせず、学食から部室に向かってきた晴彦に衝突しながら、あっという間に階段を駆け下りて見えなくなっていた。
みつきの背中が遠ざかる中、部室から一成が感情のままに荒れ狂う物音がけたたましく鳴り響いた。ただの八つ当たりだと分かっていても一成にはどうにもできない。浩一郎の視界に入った一成の姿は、何者も救い出せない闇の中に深く沈みこんでいるようだった。
「カズ、物にもみつきちゃんにも当たっちゃだめじゃん」
洋平は部室の惨状と一成の制御不能の感情を目の当たりにしながら、ぽふっとソファに横になった。雑誌を広げるしぐさはいつものことなのに、それがやけにおかしな形に捻じ曲がって見えた。
「洋平…お前って奴は…」
そこだけ空間がねじれているのか、それとも浩一郎の目が歪んでいるのか、どちらにしてもこの場にそぐわない洋平のしぐさが、やけにおかしな色を持って異彩を放っていた。そんな浩一郎の視線に、雑誌の端から目だけを出した洋平が小さく肩をすくめた。
「僕を睨んでも解決しない。二人が話すチャンスをつぶしたのは、カズだ」
洋平の軽々しい口調とは裏腹に、その言葉は一成に重くのしかかった。押しつぶされる感覚に、一成は深い暗闇にはまり込んでいく。渦巻く暗闇の奔流はもう一成には抑えきれない。崩れていくだけの一成の感情は、もう浩一郎の手が届かないところに落ち込んでいた。
ようやく部室にたどり着いた晴彦は部室の惨状を目にすると、小さく吐息をついた。みつきの涙に荒れ果てた部室、晴彦は倒れた椅子や床にばら撒かれた雑誌を無言のままに片付けると、一成の額をぺちっと乾いた音をたててはたいた。
「…泣かせた罰…」
晴彦は呟くようにそう言うと、いつものようにカウチを陣取りゆっくりと体を預けた。
一成に会いに行ったはずのみつきを階段下で待ちながら、元は2階の廊下に響いた一成の怒声を耳にしていた。何があったかは分からないけれど、概ね一成の機嫌の悪さとそれを煽った張本人である自分、その間にはさまれてみつきがとばっちりを食ったのだろう事は容易に想像がついた。元は泣きながら階段を駆け下り、前も見ずに飛び込んでくるみつきの体を涙ごと受け止めていた。
「みつき…どうした…泣いてるのか…?」
「元ちゃん…」
みつきは驚いたように元を見上げると慌てて涙を拭い、小さく頭を左右に振った。
「だいじょぶ…ちょとびっくりしちゃっただけ…」
「びっくり…?」
「うん…」
みつきはだいじょぶだから、そう呟くと元の手を振り切るように涙を拭って教室に歩き出した。元の腕はみつきに伸ばされたままその空しさを握り締める。
(―また下手な嘘つきやがって…)
元はみつきの涙の一端を自分が握っているのだろう罪悪感から、涙を拭い上げるみつきの背中を追うことが出来ない。ただ自分よりみつきの傍にいながら、守ることもできない男よりはずっとましだろうと思えていた。
(―なんで泣かせんだよ…)
元は階段を睨みあげながら、一成がみつきを追ってもこないこと、そのことに憤りを隠せないまま教室に向かって足を踏み出した。




