第5章 寝ぐせ姫の恋愛事情(6)
好きと言う感情を言葉で説明することの難しさは、浩一郎の顔を複雑な色に染めていた。浩一郎が好きだと思ったのはいつのことだったか、浩一郎は付き合って2年になる奈緒を思い浮かべた。
「俺は、奈緒のことしか分からない。だからお前にうまく伝えてやれるかも分からない」
それでもいいか?浩一郎はそんな風に伺うような視線を一成に向けた。一成が小さな子供のようにうずくまったまま、浩一郎の視線にうなずいたのを見ると、浩一郎は少し遠い日のことを思い浮かべながら静かに語りだした。
「俺は奈緒と幼馴染だっただろ?小等部は違う学校だったから、会うこともなくなったけど、それでも奈緒が中等部に入ってきた時、やっぱり奈緒は俺にとって特別だった。誰にも感じない特別を感じたんだ」
「特別…か?」
「そうだ。奈緒がどこの誰だか知らない奴と、話すことも一緒にいることも不愉快だった」
「意外…だな…」
年齢以上に洞察が深く常に冷静に事に向かう浩一郎がやきもちを妬くなど少し想像し難い。それでも静かにみえる浩一郎の内側でそういう感情が動くほど人を好きになれていることが一成はうらやましいとさえ思えてしまえていた。
「そうだな…確かに俺も自分にこんな感情があるなんて思わなかったな。でもな、分かったんだ。奈緒が俺の知らない男と付き合うって噂が流れた時があってな…今みたいにご丁寧に洋平が俺に告げ口してきたんだ」
浩一郎はその時のことを思うと苦笑いするしかないのだろう。洋平なりの気遣いで奈緒の噂が耳に届いた時のことを思い出しながら浩一郎は静かに語りだした。
『水上奈緒ちゃんって浩の幼馴染だったよね?あの髪の綺麗な子』
中等部の教室の片隅で洋平が何気なさを装って切り出したとき、浩一郎は次の授業の教科書とノートを机の中で探しているところだった。
『ああ…奈緒なら幼馴染だけど…奈緒が、なんだ?』
探し出したノートを机に置きながら、浩一郎の瞳はあからさまな洋平への警戒を浮かべていた。幼馴染とはいえ洋平の問いかけに敏感な反応を見せる浩一郎に、洋平はシャーペンを弄びながらその口角を引き上げた。
『ん~…この間から噂になってたんだけど…奈緒ちゃんって彼氏いる?』
『奈緒に…彼…氏…?』
洋平の問いかけに浩一郎は自分の頭の中の回路と言う回路が全て絶たれた気がした。まるでブレーカーが落ちたときのような暗闇が一瞬で浩一郎を飲み込んいた。洋平は浩一郎のシャーペンで机を軽く突きながら、上目遣いに浩一郎を覗き見ている。
『やっぱねぇ…奈緒ちゃんって綺麗で大人っぽいから目立つよね。たぶん香蘭の生徒だと思うけど、この間奈緒ちゃんを校門で待ち伏せてんの僕見ちゃったんだよねぇ』
『香蘭…?』
『そ、隣町にあるじゃん、あのスポーツとかで有名な男ばっかの香蘭高校。詰襟の学生服だったからほぼ間違いないと思うけど…浩、心当たりある?』
『…いや…ない…』
そう問いかけられても思考回路を絶たれた浩一郎にはこれ以外に返事のしようもない。奈緒に彼氏がいるかもしれないと言うことすら初耳だった上に、相手が同じ学校でもないということも更に驚きだった。洋平は浩一郎の顔色がみるみるうちに青ざめていくのを面白そうに眺めている。
『聞いてみたほうがいいんじゃない?』
『え…?ああ…そうだな…』
洋平のアドバイスは浩一郎を案じてというよりも事の成り行きを引っ掻き回して楽しみたい、そんな思惑が垣間見える。いつもならば敏感に察知できそうな洋平の魂胆も、その時の浩一郎のアンテナは働かなかった。浩一郎は力なく洋平の言葉にうなずくと、広げたノートの縁を握り締めていた。
その日の放課後のことだった。浩一郎がいつもより少し遅めの帰宅になったとき、折悪しく奈緒と件の香蘭の学生の道行きを後ろから眺めるはめになってしまった。秋も深まり肌寒さを増した夕暮れの中、奈緒の赤いマフラーが風に揺れている。奈緒は時々口を開き、傍らを歩く男に語りかけている。その顔は特別楽しそうには見えないまでも、不快そうではなかった。
何を話しているのだろう、なぜ一緒にいるのだろう、なんで自分は奈緒をつけるような真似をしているのだろう。浩一郎ははたと気がつくと足を止めていた。奈緒は浩一郎に気がつくそぶりもなく、その距離はぐんぐんと離れていく。
『奈緒っ』
気がついたときには奈緒の名前を呼んでいた。振り向いた奈緒の表情すらしかとは確かめられないくらい距離が離れていた。奈緒は浩一郎の声に足を止め振り向くと、傍らの男がいぶかしげに奈緒に問いかけている。そうして親しげに奈緒に話しかけ浩一郎を牽制する男の雰囲気に思わず浩一郎は声を荒げていた。
『奈緒っ、行くなっ』
『浩ちゃん…』
奈緒が切れ長な瞳を出来る限り見開いて、浩一郎が駆けつける姿を見つめている。香蘭の学生の問いかけも浩一郎の耳に届く距離まで近づいていた。
『水上さん、誰?知り合い?』
『あ…えっと、浩ちゃんは…』
奈緒が傍らの男に浩一郎の説明を加えようとしたとき、浩一郎の手が奈緒のほっそりとした腕を引き寄せていた。
『奈緒、こっちに来い』
『あのっ…浩ちゃんっ?』
奈緒の華奢な体を詰襟の学生服から引き剥がすと、奈緒の足がその場でたたらを踏んでバランスを崩す。
『いいからっ、来いっ』
『浩ちゃんっ?』
後にも先にもこんなに取り乱した浩一郎を奈緒が見ることはなかったかもしれない。奈緒は戸惑いながらも浩一郎の腕の力に抗うことなく引き寄せられていた。けれど傍らの男も黙っているわけはない。今にも奪い去られていきそうな奈緒に腕を伸ばし、浩一郎に非難の目をむけ口を開いた。
『ちょっと、あんた誰だよっ。水上さんが嫌がってるだろっ』
『嫌がってる?奈緒が俺を?そんなことあるわけないだろ?』
お前の目は節穴か、そんな言葉が続きそうな浩一郎の口調は自信に満ちていた。なにも根拠のない浩一郎の振る舞いに、奈緒は我知らず頬を染めていた。
『浩ちゃん…』
恥ずかしそうに頬を染め、俯きつつも奈緒の指先が浩一郎のシャツを掴んでいた。その瞬間、どちらが勝者であるかは明らかだった。
『島木君、ごめんなさい。いろいろ勉強になったわ、音楽のこと。ほんとにありがとう。あの…浩ちゃんは私の幼馴染でお兄ちゃんみたいな人で…初恋の人…なの』
夕焼け色に染まる奈緒の髪が謝罪の言葉と同時にさらりと揺れる。追い討ちをかけるようにもう一度ごめんなさいと言いながら奈緒が頭を下げると、詰襟の学生は夕暮れに沈み込んでしまいそうに力なくうなだれた。
『浩ちゃん…』
奈緒のほっそりとした指先に少し力が込められる。シャツを引き軽く上向く瞳が潤んでいた。奈緒はとても愛らしく、とても綺麗になっていた。
『奈緒…俺も…俺の初恋もお前みたいだ…』
『浩ちゃん…嬉しい。追いかけてくれてありがとう』
浩一郎は奈緒の名前を小さく呼びながらほっそりとした体を抱き寄せた。長く伸びた黒髪がさらりとなびき、すらりとして華奢な体が小さく震えていた。夕暮れに溶け始めた二人の影がしばらく重なったまま動けない。浩一郎は初めて自覚した恋心を胸に満たしながら、奈緒の髪を優しくなでていた。
「あの時はとにかく嬉しいなと思ったんだ。奈緒がすぐそばにいて、俺の袖を掴んであの男に頭を下げたのが…それまで好きだって自覚してたわけじゃないけど、でも考えたら俺、知らないうちに奈緒ばっかり見てた気がしたんだ」
浩一郎と奈緒の馴れ初めを詳しく聞いたのはこれが初めてかも知れない。付き合う事になったのだと報告はあった。その時柔道ばかりの浩一郎にこういうことで先を越されるとは思いもしていなかった一成はかなり驚いた覚えがある。よかったな、そういう唇が震えていたのも思い出していた。
(―俺も…俺にもこんな時が来るのか…?浩にむかって彼女ができたって、胸を張れる日が来るだろうか…?)
一成はその時感じた不安を胸に、まだ思い出の余韻に浸る浩一郎を苦しげに眺めるしか出来なかった。
あけましておめでとうございます。新年早々お越しいただきありがとうございます。今後とも鋭意執筆いたしますので、どうぞ変わらぬお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。皆様にとってこの一年がよい年でありますようお祈り申し上げます。




