第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(8)
マンションの地下駐車場で、総一郎がいかめしい黒塗りの外車の後部座席に乱暴に荷物を置いている間に、留美が当然のように運転席に腰掛けた。普段はかったるいからと運転をしたがらない留美のその行動に、総一郎はことのほか顔をしかめた。
「なんだ?お前が運転するのか?」
「そう、買い換えるのは携帯だけでいい」
携帯を壊したのはこれで何台目か、留美の抑揚のない言葉に総一郎は二の句を告げなかった。そんな総一郎を尻目に、留美が車のキーをゆっくりと回し高鳴るエンジン音にまぎれるように再び口を開いた。
「車はどうとでもなるけど、自分の体は買い替えられないから」
追い討ちをかける留美の言葉の正当性に歯噛みしながら総一郎が悔し紛れに片手を握り締めると、これまで以上に乱暴な足取りで助手席の扉を開いた。
「携帯は戻ってからでいいっ」
総一郎はせめて負け惜しみに聞えないように精一杯声を荒げ、黒光りする車体を揺らしながら助手席にどかりと腰をおろした。助手席のシートが総一郎の大柄な体をどうにか受け止めたとばかりにきしんだ音を立てると、それを留美は一瞥してまた静かに口を開いた。
「携帯も買いに行かないと、みつきと連絡取れない」
留美は総一郎の言葉などまったく取り合わず、携帯ショップへ向って車をスタートさせた。
真夏の強い日差しが頭上から照りつけ、アスファルトに落ちた水が音を立ててしみ込むように広がっていく。みつきはマイスナの駐車場のそんな光景を目にしながら、遠くに見える海に思いを馳せていた。
良太も嵐への対策を立てようとしていたけれど、いつもはあくびが出るほど閑散としたマイスナも稼ぎ時を迎え、ランチタイムは目の回るような忙しさだった。頼みの春香が出産のために実家に帰省してしまっている今、次々と途切れないお客とオーダーに二人はてんてこ舞いで、みつきにしても総一郎と一成のことを考える余裕もなくなってしまった。
辺りには予報通りに強い南風が吹き付け、それに煽られたホースの水が小さなしぶきをみつきの顔に跳ね飛ばした。そのしぶきで出来た虹はいつもならみつきの気持ちを楽しませてくれるのに、今日はそれすらみつきの心を晴らしてはくれなかった。
もうすぐそこに嵐は迫っているはずだ。巻き起こる風、吹き飛ぶ看板のかわりに一成が投げ飛ばされていくのがみつきには見えるようだった。それでもいまだに戻る気配のない一成に、みつきはその場で地団駄踏みながらもどかしい気持ちをどうすることも出来なかった。
今のみつきにできることはただ一つ、死刑執行の前に一成を死刑台から掠め取らなくてはいけない、タイミングがちょっとでもずれたら大惨事だ、みつきはその時を目を離さずに待ち続けるしかなかった。
携帯を強制的に買い替えさせられた総一郎は、長いことまんじりともせず助手席に座らされ続けた。
「お前の運転じゃマイスナに着くころには日が暮れちまう、いいからさっさと車の鍵をよこせ」
留美が自分の言葉に耳を貸さないのはよく分かっていながら、そんな脅し文句を洩らすしかない総一郎にもようやく転機が訪れた。留美は高速を降りたところでおもむろに路肩に車を止めると、総一郎に車のキーを差し出した。
「疲れた」
そういう留美から車のキーを奪うように受け取ると、総一郎はアクセルを踏み込んだ。総一郎がやきもきしているのを承知の上で、いつもより安全運転な留美に始終イライラさせられていただけに、総一郎の気は急いていた。アクセルを踏み込んだ車は思った以上にスピードを上げながら郊外を走りぬけたけれど、通行人がいつもより多い街中に車が差し掛かるとどうしても安全運転を強いられた。留美の作戦勝ちだ、総一郎は歯噛みしながら横目でちらりと計り知れない留美の思考を睨みすえた。
総一郎はなかなか渡り切らない横断歩道の歩行者や加速の悪い原付バイクに道を阻まれ、それでもどうにか無事故で目指すマイスナへの最後の曲がり角に差し掛かった。
(―よし、あと少しだ)
次の直線を一気に加速すればすぐにでも着く、総一郎がはやる思いでハンドルを切ると車はようやく曲がりきれたとばかりに車体を傾けた。そして角をまがった総一郎はハンドルを握り締めアクセルを踏み込もうとしたけれど、その足はすぐにブレーキを踏み込む羽目になった。車が曲がりきった目と鼻の先に長い車の列が目に入り、総一郎のすぐ目の前に赤いブレーキランプが迫っていた。
車は音を立てて止まりどうにか衝突を免れたけれど、総一郎は悔しさのあまりハンドルを思いっきりたたいた。クラクションを盛大に鳴らし、怒鳴り散らしたい衝動を必死にこらえた総一郎の形相は冷静を欠いていた。
助手席の留美はそんな総一郎を尻目に、何事もなかったように窓を細く開けるとタバコに火をつけた。留美が開いた窓の隙間からビーチで海水浴を楽しむ歓声やざわめきが、大きく息をつく総一郎の耳に届いた。
ビーチの歓声は総一郎にこの時期のこの道が異常に混雑すること、そのことを嫌でも思い出させた。総一郎は遅々としてすすまない車の渋滞にはまりながら、長い車の列の向こうに鋭く目を光らせた。
一成が髪から滴るしずくをそのままにマイスナの駐車場についたとき、みつきが一成に飛びついた。
「カズっ、ずっと待ってたんだよっ」
一成に飛びつくみつきの瞳はなぜか涙に潤んで見えて、一成は慌てて時計を見たけれどその針は約束の時間を指してはいなかった。その事にほっとしながらも、一成はみつきの泣き顔にいぶかしみながらその髪へ手を伸ばし眉をひそめた。
「なんだよ、どうした?まだ時間じゃないだろ?お前がうるさいから、ちゃんと約束どおりの時間に戻ったんだ、なにも泣く事ないだろ?」
「違うんだよカズ、大変なのっ、大変なんだよ」
総一郎が今どこまで押し寄せているかそんなことを思えば思うほど、差し迫る不安と恐怖に押しつぶされてみつきの言葉はうまく状況を説明しきれなかった。けれど一成は、不安を訴え今にもこぼれそうなほど押し寄せたみつきの涙に、たまらずその体を抱き寄せた。
「どうしたみつき…泣くな…」
一成にはみつきの涙の訳が見えなかったけれど、ただ不安の中に佇むみつきを一人にしておくことなど出来なかった。一成がその一事に思いを馳せてみつきの小さく震える体を抱き寄せながら、優しくみつきの背中に手をあてた。
「カズ…」
一成の腕の心地よさにみつきがつい重大な事柄を失念しその胸に頬を寄せたとき、マイスナには不似合いなほど黒光りする車が不吉な音をたて駐車場に滑り込んだ。
「あれはまた…ずいぶんいい男をつかまえたね」
フロントガラス越しに見た一成とみつきの姿に、留美は感嘆の声を上げた。滅多に感情を昇らせることのない留美のそんな驚きも耳に入らないのか、総一郎はエンジンを切ることも忘れて外に飛び出した。
「まったく…大人気ない」
大きな車体を揺るがしながら勢い込んで出て行く夫の背中を見つめ、留美は新しい煙草に火をつけた。
「なんだ…あれ?」
一成は黒光りする車と真夏の盛りに真っ黒いスーツを身につけた異常にがたいのいい男の取り合わせにあきれた声をあげていた。そんな風にいぶかしむ一成の視界の中で、男は明らかに一成を睨み付けそして激しい敵意をむき出して走り出した。
初めて目にする男の敵意が何に向けられたものか、一成には到底理解することはできなかったけれど、男が無言の中に激情をほとばしらせ迷うことなく突進してきている事に一成はすぐに危機を悟ると、迷うことなく腕の中のみつきを力の限りに突き飛ばした。
「みつきっ…」
逃げろ、一成はそう言おうとしていたけれど、最後まで言うことはできなかった。




