第4章 寝ぐせ姫と夏の嵐(9)
一成はみつきを突き飛ばしたとほぼ同時に自分の左顔面に強い衝撃と、それによって体が浮くのを感じていた。そして次の瞬間には右半身から地面に落ちた強い衝撃と共に、右肩が太陽に熱せられたアスファルトにたたきつけられた嫌な感触を味わった。一成が体を起こそうとした右腕はその体を支えきれず、激しく揺らぐ頭では何が起きたのかそれすら把握することができなかった。
―カズっ…
アスファルトにじりじりと照りつける太陽の熱を肌に感じ、一成は遠のきそうな意識の中でみつきが自分の名前を呼んでいるのをうっすらと耳にしていた。涙に濡れながら必死に自分の名前を呼んでいるのがみつきの声だということ、そのことだけは一成にも辛うじて分かった。分かるのだけれど一成にはそれがひどく遠く感じられて、混沌とする意識の中でみつきの泣き顔だけが一成の脳裏にひらめいた。
―カズっ…
そのみつきの涙に一成は白濁した世界に堕ちそうになる自分を奮い立たせると、力任せに体を起こし慌てて辺りを見渡した。けれど、そばにいたはずのみつきは見知らぬ男の左腕に軽々と抱え上げられ、一成に助けを求めるように腕を伸ばしながら必死にもがいていた。
「みつきっ」
立ち上がった一成はそう叫んだけれど、思ったよりも体に力が入らず一成の足はその場でよろめいた。倒れるなっ、一成は揺らぐ視界を振り切って、必死に自分を鼓舞しつづけた。そうして気を張っていなければ、一成には自分の体があっけなく倒れこんでしまうことがよく分かった。
アスファルトに叩きつけられた一成の右肩は力なく垂れ下がりまだ感覚が戻らない、殴られた口端からは一筋の鮮血が流れ出て口の中には鉄臭さが広がっていた。顔を殴られたのは初めてではない、けれどたった一撃でここまで体が利かなくなるのは初めてだった。
それでもそんな弱音を吐くわけにはいかない、一成は自分の切羽詰った状況をせいぜい相手に悟られないよう力任せに口端を拭いあげると、見知らぬ男を煽るように睨み付けた。
「みつきを放せ」
気力だけで立ち上がった一成の声に、男は器用に片眉をあげた。一成が男を睨み付けるその瞳は気力に満ち溢れていたけれど、一成の体は立っているだけが精一杯、そう言っているのがはためにもよく分かった。そんなぎりぎりの状態でなおも煽り立ててくる一成に、男は口端を歪めて鼻息を荒げた。
「よく立ったな、これで気を失わないやつは久しぶりに見た」
「そうか、だったらどうした…さっさとみつきを離せ」
「熱くなるな、坊主、お前コイツのなんだ?」
「お前こそ誰だっ」
後が無い自分とは裏腹に余裕たっぷりにみつきを顎で示す男の態度に、一成は声を荒げた。けれど男はそんな一成の虚勢を簡単に鼻であしらうと口を開いた。
「俺はコイツの兄貴だ」
文句あるか、そんな風に胸を反らせた総一郎の言葉に一成は自分の目と耳を疑いつつ、その内側で必死に自分を支えていた糸が儚い音を立て切り離された感触があった。
「…兄貴…?」
左腕一本におさまるこの小さいみつきと一成でさえ見上げるほどの大きな男が兄弟、その信じ難い驚愕に満ちた一成の視線と、涙目でうなずくみつきの視線がぶつかった。
(―嘘だろ…?)
それだけを思うと一成の体から力が抜け落ちた。今にも倒れそうな一成の姿に、みつきは総一郎の腕に力任せにかじりついた。思いがけないみつきの反撃に生まれた総一郎の隙を逃さず、みつきはするりといまいましい拘束から抜け出すと一成の名を呼びながら駆けつけた。
「カズっ、カズっ、だいじょぶっ?」
茫然自失する一成の左頬にみつきの小さな手が触れた、その痛みにようやく一成が我に返ると、泣き腫らした瞳で自分を覗き込むみつきの姿が目に飛び込んだ。
「…みつき…」
一成は傍らのみつきが幻ででもあるかのようにおそるおそる腕を伸ばした、けれど一成の手がみつきに触れる一瞬前、総一郎が一成からみつきを引き剥がした。
「みつきに触るなっ」
一成が振り仰いだ総一郎の形相は凄まじく、一成はその怒号に伸ばした腕を下げることも、ましてそのままみつきに触れることも出来なかった。
「二度とうちの妹に近づくなっ」
総一郎は去り際にまた一成に怒鳴りつけると、そのままみつきを腕に抱えてマイスナの店内へと足音高く立ち去って行った。何もない空間に伸ばされたまま行き場を失った一成の腕は、マイスナの扉が閉まると同時に、引き離されたむなしい感情を握り締めた。
総一郎が泣き喚くみつきを抱えたままマイスナの店内に足を踏み入れたとき、店内には数人の客がまだくつろいでいた。けれど、総一郎の威圧的な風貌に、もがき続ける少女の異様な取り合わせを目にすると皆そそくさと席を立った。
店の奥まったテーブル席には、すでにアイスコーヒーを半分ほど飲み干した留美が座っていて、総一郎はみつきを椅子に放り投げると、留美の隣にどかりと腰を下ろした。するとほぼ同時に、最後の客がカランという音と共に店を後にした気配が、総一郎の耳に届いた。
「営業妨害だな、総一郎…カズはどうなった?投げ飛ばしたか、殴りつけたか?」
総一郎は良太に溜息混じりに出されたアイスコーヒーを仇のように飲み干すと、無言のままに一成を殴りつけた拳を握り締めた。
「殴ったか…」
まったくお前はしょうがない、そんなふうに良太が深い溜め息混じりに席を離れていくのを総一郎は感じながら、今度は自分を睨み付けるみつきに視線を戻した。さっきまで散々総一郎をなじっていたみつきは、席に着かされると一転して無言を貫き通した。
そのみつきの態度は言葉でなじられるよりひどく総一郎を圧迫し、今までにない非難に否応なくみつきの内に秘めた想いに気づかざるをえなかった。それに気付いてしまったら、総一郎の渾身の怒りをぶつけた拳が激しく痛み、みつきを守るためだという自分の中の大義名分が打ち崩されたような気がしていた。
「ちょっと会わない間に、ずいぶんいい彼氏つかまえたこと」
留美は夫の心情を隅々まで把握しておきながら、それを助けるでもなく、むしろ打ち消すようにみつきに小さく微笑んだ。総一郎が留美のセリフにピクリと眉を蠢かせると、みつきはかなり困ったように眉をしかめていた。
「カズは…彼氏じゃないよ」
みつきの言葉に総一郎は顔色を変えることだけをどうにかこらえた。けれど、それでもわずかに動く眉、口はしに浮かぶ嫌悪は隠しようがなく、組んだままの腕には自然と力がこもった。
白昼堂々、あんなところであんなことをしておきながら、彼氏じゃないとはどういうことか、声に出さない総一郎の声はマイスナの店内にびりびりと響き渡った。しかし次のみつきの言葉に総一郎の声にならない怒声は、音を立ててしぼみこんだ。
「カズは…お父さんなんだよ」
涙に濡れたみつきの声は触れてはいけない傷跡を押し開き、強く疼く感情を滲ませていた。言葉の意味はごくごく明快だった。幼い頃に父親を亡くしたみつきが父性を求めてあの男に重ねている、何も知らない他人にとってはただ単にそういう意味合いでしかないけれど、みつきが今は亡き父親の姿を強く追い求めているその理由を、この場にいる誰もが心得ていて、言葉のいらない感情に総一郎と留美はただ押し黙る以外できなかった。
この子はまだ傷ついている、留美はみつきの瞳に落ちた陰に小さく眉をひそめた。留美には、みつきが無くしてしまった心の欠片を捜し求めて、目隠ししたまま綱渡りをするように細い不安定な橋の上をさまよっている様に見えた。小さな頃の深い傷跡、いつまでたっても癒えないその傷がみつきの内側で今も変わらず血を流している、留美は小さくみつきを悼む吐息をつくと、それを誤魔化すように煙草をゆっくりとくゆらせた。
駐車場に停まったままの黒光りする外車、今にも総一郎の怒りを乗せて走り出しそうなそれを目に、一成はマイスナの扉に手をかけた。カランという軽々しい音と共に電気が走ったように店内の空気が引き攣れた音を立てた。
「カズっ」
みつきは総一郎の制止より一瞬早く立ち上がると、その勢いのまま一成の腕に飛び込んだ。一成は小さくごめんねと繰り返すみつきの向こうから自分に向けられている身を切るような総一郎の視線を真っ向から受け止めてみつきの肩に手をかけた。
「…お前ちょっとここにいろ」
一成はまとわりつくようなみつきを良太に預けると、まっすぐに総一郎に向かって足を進めた。一歩ずつゆっくりと、それでいて確かな足取りで総一郎に近づく一成を目にしながら、留美が新しいタバコをゆるりとくゆらせた。留美の煙草から立ち上る紫煙がその形を崩した頃、一成は総一郎の目の前で足を止め握り締めていた拳に力を込めた。
あまりに強く握り締めたその手は血の気を失い、込められた感情の強さにマイスナの張りつめた空気が一気に膨れ上がった。誰もが、総一郎でさえも、一成の拳に激しい感情を見ていた。呼吸をすることでもはちきれてしまいそうなその緊縛感に、その場の誰もが息を潜めずにはいられなかった。




