第3章 寝ぐせ姫と鬼王子(7)
一成とみつきは学校からまっすぐにマイスナを目指し、夕日の差し込む店内に差し向かいで座っていた。いつもはカウンターを使う一成も、今日はみつきの課題のために4人掛けのテーブル席に腰を落ち着けていた。
「なんだこれ…こんなの赤点取ったやつに出す課題じゃねぇだろ」
一成はみつきが恐る恐る差し出した数学教師の悪意の塊りを一通り眺めた後、眉根をしかめて憎々しげにつぶやいた。みつきが出されたという課題はその量も問題ならば、その難易度も問題だった。
「これ、こないだの中間の問題だぞ?しかも俺達のクラスのやつだ」
数学教師の悪意に満ちたいやらしい設問にその中間の平均点は理数系クラスとは思えないほど振るわず、くだんの数学教師に先日嫌味を言われたばかりだ。それを1年の、しかも赤点を取ったばかりのみつきに課題としてやらせようというその数学教師の魂胆に一成はすっかり憤っていた。
「こんなのみつきにできるわけねぇ…できないって泣きつかせたいのか、鼻で笑いたいのか…」
一成はこんな身にもならない課題をやらせようという数学教師の思惑を探りながらすっかり考え込んでしまっている。みつきはそんな一成を時々困ったように見つめながら、クリームソーダのアイスをちょびちょびと口に運んでいた。
「よし、わかった。みつき、俺の言うとおりに書け」
「うっ、うん」
「いいか、まず一問目は…」
そうしてスプーンの代わりにシャーペンを慌てて握り締めたみつきの手は、解答を暗記しているかのようにすらすらと述べていく一成のスピードにすぐに追いつかなくなっていた。
「カっ、カズっ…ちょと、ちょとまって。書けないよぉ」
「あぁ…そうかそうか、悪い。じゃあこれ…写せ」
一成はちょうど復習しようと思っていたんだとカバンから取り出した中間の解答用紙をみつきの前に放り出した。その右端にはみつきが一生かかっても採ることのできないような点数が書き込まれていた。
「カズ…すご…これ、点数だよね…?」
「あ…ああ…まあ…そんなことはいいから、これ見ながら写せ。それで明日元にも教えてやれ」
「いいの?元ちゃんに教えてあげても」
「いいんじゃねぇの。どうせこんな課題だしたって、お前らがこなせるなんて出した本人だって思ってねぇ。こんなの真剣にやってもただの時間の無駄だ。お前にはまだ早すぎる」
一成は数学教師のいけ好かない顔を思い浮かべてでもいるのか、尊敬のかけらもない口調で言い放つと、早く写せとみつきをせかす。みつきは溶け始めたクリームソーダのアイスを名残惜しげに見つめてから、一成の参考書のような完璧な解答欄を懸命に写し取っていく。
一成はまったく意味も分からず記号を写していくみつきの努力を見守りながら、夕日に煌く水面へ視線を移し、この先のみつきの補習行程を算段し始めていた。
ふ~とみつきが半分ほど解答を写し取った辺りで両腕を伸ばし、凝り固まった肩をほぐすように首を左右に曲げ伸ばした。するとその気配にすっかり日が落ちた水面を見つめていた一成の視線がみつきを捉えた。
「終わったか?」
「え…」
みつきは当然のように一成が口にした問いかけにすぐに答えることができなかった。意味の分からない記号を写し取るだけでも大変だというのに、一成の解答は一問が数行に渡って書かれていて、みつきはびっしりと書き込まれた解答を一行飛ばして書いてしまったり、うまく記号が書けなかったりして一問写すだけでも骨を折っていた。一成はみつきの解答用紙の半分がやっと埋まっただけなのを目にすると、その眉根をしかめてみつきを睨みつけた。
「おい…写すだけだろ」
「だってぇ…こんな記号見たことないし、カズの答えがいっぱいなんだもん」
「俺が悪いのかよ。これはこういう解答方法なんだよ」
「うう…」
みつきは一成の不満げな声音に口を尖らせ、小さな体を更に小さくまるめてしょぼくれたそぶりを見せた。するとそのみつきの丸まった背中を良太の優しい手が撫でていた。
「まあまあ、みつき。カズがせっかく見せてくれてんだ、文句言わないでがんばって写せ。カズ、腹が減っては戦はできないだろ?みつきもそれなりに頑張ってるから、許してやってくれ」
良太が皿に盛ったサンドウィッチを隣のテーブルにおくと、春香が淹れたてのコーヒーを二つその脇へそっと差し出していく。
「カズ君、無理いってごめんなさいね。よかったら少しつまんでね」
春香のほわりとした微笑みと良太のとりなしに一成のしかめた眉がふっとゆるむと、みつきは嬉々として隣のテーブルに一成を引きつけて座り込んだ。
「カズ、先に好きなのとっていいよ。あたしは卵とハムがあればいいから」
みつきは先にどうぞといいながらちゃっかりと自分の食べたいものをアピールして、一成の手がどこに伸びていくかをじっと見守っている。一成はそんなみつきの食い入るような視線に小さくため息をつくと、良太と春香にいただきますと頭を下げまっすぐに卵に手を伸ばした。
「あぁっ…」
一成の手が卵に手をかけるとみつきは殊更悲しそうに小さく落胆を示し、次いでその手がみつきの前に差し出されると今度はその瞳を輝かせた。
「いいのっ?」
「そんな物欲しそうに見られたら食えるわけねぇだろ」
一成がみつきの小さな手が卵サンドを宝物のように受け取っていくのを溜め息まじりに見つめていると、良太も春香も互いの瞳を合わせてそっと厨房へ引き返していく。一成は結局みつきの好物以外のサンドウィッチを平らげることになりそうだ。みつきが幸せそうにサンドウィッチにかぶりつくのを見つめながら一成はコーヒーだけを口に運んだ。
「二人ともかわいいわね」
「二人…?」
「ええ…カズ君が特に…」
春香は一成の表情が穏やかにみつきを見つめる光景に微笑みながら、良太がそうだなと相槌を打つ事に小さくうなずいた。
「みつきちゃんもカズ君のおかげですごく自信がついたっていうのかしら、なんだかすごくしっかりしたような気がするわ」
「春香はすっかりみつきの母親みたいだな?」
「あら…だってみつきちゃんには幸せになってほしいんですもの。いままでとても頑張ってきたんだし」
春香の優しげな瞳の中にみつきを悼む色を見出すと、良太はそっとその華奢な肩に手をのせた。
「そうだな…きっとなれるさ。大丈夫」
良太の大きな手のひら、そのごつごつとしたあたたかさ、それに春香は手を添えてみつきに差し出されたサンドウィッチをようやく一成が口に運んでいく光景に微笑んだ。
「はい、カズどうぞ。カズも食べてね」
みつきはカズにハムカツサンドを差し出しながら小首をかしげて微笑んだ。一成はみつきに差し出されたサンドウィッチを手にしたまま、しばらく考えていた事柄を口にした。
「みつき、部活とバイトの予定全部俺に教えろ。それから遊びの予定もな」
「なんでぇ?」
みつきは最後の卵サンドを口に頬張りながら、その口角に卵をつけたまま一成に首をかしげていた。一成はそんなみつきの卵に困ったように眉をひそめ、そして一成のために良太が作ってくれたのだろうサンドウィッチに手を伸ばす。
「なんでじゃねぇよ。補習するからに決まってんだろ」
「あ…そか…でも部活はできれば毎日出たいし、バイトは週末毎日だし、再来週は文化祭だし…しばらく無理かなあ」
「無理かなぁ、じゃねぇよ。それでもやるんだ」
「ん~…」
みつきはいろいろとこの先の予定と補習の予定をあれこれ算段しているのか、なにかを考えるそぶりを見せつつフルーツサンドに手を伸ばした。生クリームにオレンジとレーズンの挟まったサンドウィッチはみつきのデザート代わりだろう。みつきが最後の締めのサンドウィッチに瞳を閉じて堪能する姿に一成はため息をついた。
「おい、お前やる気あんだろな」
「うん、あるよぉ」
みつきの返事はとてもよかった。逆にそれが怪しいと一成がいぶかしんでいると、みつきはそれを察したのか一成が口を開く前に広げられたままの解答用紙にいそいそと向かっていく。
「さてさて、こっちをやっちゃわないとね。あ、カズはゆっくり食べててね」
みつきはシャーペンをくるりと回して微笑むと、思いのほか真剣な面持ちでペンを進めていく。一成は今日だけはやけにやる気を見せているみつきの姿に肩をすくめると、残りのサンドウィッチを黙々と口に運んだ。マイスナの外に広がる海はもうどこにあるかすら分からないほどの暗闇に包まれ、ひっそりとその波音だけを一成に響かせていた。




