第2章 寝ぐせ姫と桜の木(3)
「カズはお父さんだよ?」
浩一郎がその声に驚いて振り向くと、いつの間にやってきたのか一成と洋平の言い争いの元凶とも言えるくだんの女の子が立っていた。その子は中学生のような体に真新しい高等部の制服を身にまとい、穢れを知らない無垢な瞳で洋平と浩一郎を見上げていた。浩一郎は間近に捕らえた少女のその子供っぽさに改めて目を見張り、まじまじとその姿を眺め渡した。
(―この子がカズの…)
驚きに支配された浩一郎の頭では、その先の言葉が見つからなかった。彼女というには少し不自然で、友達というのもおかしい。なんというのか、兄弟のようなとても近しいような存在に思えてならなかったけれど、どれもこれもしっくりとこなくて浩一郎は一成の傍に立つ異性に対しなんとも説明のつかない戸惑いを覚えていた。
「みつき、あっちにいろって言っただろっ」
一成がみつきの小さな肩をつかみその体を反転させようとしたけれど、みつきは有無を言わさず遠ざけようとする一成に向かって頬を膨らませた。
「え~、いいじゃんカズの友達でしょ?お父さんの友達は大切にしないとね」
みつきはそう微笑むとあきれてものも言えなくなった一成を素通りし、洋平と浩一郎に向かってその小さな手を差し出した。けれど、洋平も浩一郎も呆気にとられてその手をとることもできず、代わりに一成の諦めにも似た呟きが小さくその場に響き渡った。
「みつき、いい加減にしてくれ…」
「え~、なんでぇ」
「なんでって…俺はお前に向こうで待ってろって言っただろ、聞こえなかったのか」
「え~、だってカズ全然戻ってこないんだもん」
溜め息交じりの一成の口調にも関わらず、みつきは口を尖らせている。そんなしぐさの一つ一つが本当に父親に甘える子供のようで、洋平も浩一郎も一成の隠し子発言がやけに真実味を帯びていたことを徐々に感じ始めていた。
「あたしこっちにまだ友達いないんだもん、いいじゃん一人くらい分けてくれても」
「分けるとか分けないとかじゃないだろ」
「そだけど、でもそんなに独り占めしなくてもいいじゃん」
「独り占めなんてしてねぇだろ、なに言ってんだよ」
「だって紹介してくんないんだもん」
「あとでするつもりだったんだって」
小柄な体で爪先立ち精一杯一成に向かって抗議を続けるみつきに、一成はそれをあしらいながらも深い溜め息を繰り返している。そして目の前で取り交わされる会話の不毛さに、洋平も浩一郎も互いの目を見交わして肩をすくめる以外ない。
「あのさ、お取り込み中悪いんだけど、痴話げんかはそのくらいにしなよ」
見るに見かねた洋平の仲裁に一成は途端に気色ばむと、みつきそっくりにむっとしたまま洋平に食って掛かった。
「痴話げんかってなんだっ、お前はまたそういうわけわかんねぇことを…」
「はいはい、分かった。分かったから、そうかっかしないでよ」
一成の言葉を遮る洋平の言葉は面倒くさそうで、余計に一成を煽り立てたように見えた。浩一郎は一成の瞳に走った苛立ちを察すると、一成が洋平を掴みあげる前にその肩を引き寄せていた。
「まあまあカズ、落ち着け。いろいろ言いたいことはあるだろうけどな、ほんとにそろそろ行かないと入学早々大遅刻って事になるぞ」
「遅刻…」
一成は浩一郎に差し出された腕時計の長針と短針を食い入るように見つめてから同じように時計に目を走らせたみつきとその視線がぶつかった。一成にはみつきの頭の中が一瞬真っ白になり、ありえないほどの速さで回転していくのが分かった。いったいどのくらいの間ここで言い争っていたのか、それを考えるとばかばかしさより先に焦りが募った。気がつけば中庭にいた新入生の軍団は跡形もなく消え去っていて、みつきはそのがらんとした光景にようやく顔を青ざめさせた。
「やばっ…」
「みつきっ、急げっ」
一成は声を上げるのが精一杯な様子のみつきの背中を校舎に向かって押しやると、その刺激にようやくみつきは走り出した。しかしそうして走り出して間もなく、みつきは一成に向かって手を振ろうと肩越しに一成を振り向いた。
「振り返るなっ、転ぶぞっ」
一成がそう叫んだ時には遅かった、みつきはあっという間もなく中庭の植木に足をとられその植木の上に尻餅を付いていた。ふぎゃっと小さな呻きに何本かの小枝が犠牲になり、みつきは一成の視界の中で植木から逃れられずに手足をばたつかせてもがいていた。
「ったく…」
一成は頭を抱えながらもがくみつきを助け起こし、その制服に付いた小さな葉っぱを叩き落していく。
「なにやってんだお前は…」
「えへへ…ありがと、カズ」
「えへへじゃねぇ」
一成がなかなか落ちない茶色く変色した小さな葉っぱをようやく取りきると、照れ笑いを浮かべるみつきの頭を軽くはたいた。
「いつも気をつけろって言ってんだろっ」
「わかってるよぉ。カズのおこりんぼぉ」
みつきはしかめ面の一成にあっかんべーとして見せて、一度はたかれた頭を両手で守りながら二発目が襲い掛かる前に意外なほどの俊敏さで一成の視界から走り去っていった。
「だから走るなって言ってんだろっ」
舌打ち混じりの一成の怒声が響き渡るとみつきはその場で振り返り、今度は転ばず満面の笑みを浮かべて手を振った。
「カズ、ありがと~ばいば~い」
怒鳴る声も張りを失うくらいのみつきのそぶりに、一成はみつきを遠くへ払いのけるようなしぐさをして見せた。
「いいからさっさと行けっ」
その邪険な声としぐさにもみつきは笑顔で応えると、校舎の中にぱたぱたと足音を立てながら消えて行った。その姿を見送りながらため息をつく一成の背中に洋平の呆れた声がかけられた。
「もしかしてあの子ってすごいどじ?」
「もしかしなくてもすげぇどじ、毎日怪我ができるのはあいつの特技だな」
みつきが消えた後もなお転んでないかと不安げに校舎の入り口を見守る一成に、洋平は頭の後ろで手を組みながら空を見上げて口を開いた。
「ふ~ん、なるほどねぇ…危なっかしくて見てらんなくて、ついつい手を差し伸べてたら惚れちゃったってとこか…う~ん、これは当分カズをからかうネタが出来たね」
「なっ…」
なに言ってんだ、一成はそう怒鳴りつけたくなったけれど言葉が喉に張り付いてかすれていた。一成が洋平を黙らせる効果的な言葉を咳払いしながら探していると、洋平は軽やかに身を翻して歩き出した。
「さて、僕らも遅刻する前に教室いかないとね、いっそげ、いっそげ」
洋平がおどけたように掛け声をかけながら廊下を行く姿に、一成は洋平の冷やかしの序章が幕を切ったことを悟る他なかった。




