第8章 寝ぐせ姫の涙(14)
山積みされた資料の中で悶々としたまま仕事をしていた総一郎は、みつきからの電話にうきうきとした声をだした。
『どうだった、みつき?渡せなかっただろ?だから兄ちゃんが言ったんだ、さっさとこっちに…』
「あの…お久しぶりです、俺…一成です」
総一郎が上機嫌でみつきにむかってまくし立てた言葉を一成は申し訳なさそうに遮ると、その声音に総一郎は態度を一変させた。電話口の向こうからちっと小さな舌打ちが漏れ聞こえた。
『…なんだ…腰抜け野郎か、なんの用だ』
「あの、俺、みつきが…」
一成が切り出した言葉に、総一郎は瞬時に怒りをたぎらせ一成に怒鳴りつけた。
『うちの妹をなれなれしく呼び捨てにするなっ。俺に殴られたくらいで、尻尾巻いて逃げ出すような、そんな腰抜け野郎に言われる筋合いはないっ。だいたい、なんでみつきの携帯使って電話なんかしてきてんだっ、この卑怯者っ』
みつきからの電話だと信じていた気分を害されたことも含め総一郎が一成を攻め立てると、一成はその声に思わず顔をしかめて電話を遠ざけた。そうして遠ざけた電話からは総一郎の怒鳴り声が不安げに見守っていたみつきの耳にも届いた。総一郎の剣幕に一成はみつきと顔を見合わせ、すこし微笑むとその体をそっと抱き寄せた。一成の体の動きに合わせやわらかいソファが少し沈みこんだ。
『だいたいな、お前なんかの声は聞きたくないっ。不愉快だっ。みつきもみつきだっ。何でお前なんかに携帯を使わせてるんだっ。お前は二度と顔を見せるなっ。声も聞かせるなっ。俺は不愉快だっ』
まだまだ言い足りないのだろう総一郎が息を切らせてすこし言葉を切ったところで、一成がすかさず電話を戻し口を開いた。これを逃すと次はいつ口を挟めるわからないほど総一郎の勢いは留まるところをしらなかった。
「本…ありがとうございました。今日、みつきから、もらいました。」
一成のやけに落ち着いた楽しげな声に総一郎は一瞬虚をつかれ次に言おうとしていた悪口雑言を飲み込まざるを得なかった。
『あっ…あれはお前のためにやったんじゃないぞっ、みつきが泣きながら頼むからだな…その、仕方なく…』
最初は強い口調だったものの、結局は妹のおねだりに勝てなかったこと、その事に行き当たると総一郎は語尾をにごすしかない。それが一成の沙紀に対する思いと重なると、一成への辛らつなまでの態度の一つ一つを総一郎なりのみつきに対する不器用な愛情表現なのだと思わざるを得ない
「総一郎さん、もう分かってると思いますけど、俺、みつきが好きなんです。俺はあなたに何度殴られても、もうみつきを絶対あきらめません」
一成は目の前に総一郎が立っているかのごとく凛とした声音を張り上げた。一成の言葉に迷いは感じない。総一郎は知らず知らずのうちに一成の声に聞き入り、先ほどまで握り締めた万年筆を砕きそうだった手の力を緩め一成の言葉を待っていた。
「だから、俺たちが付き合うのを認めてください、お願いします」
一成は力強く言い切ると見えない総一郎に頭を下げた。それでもきっと総一郎には伝わるはずだ。一成は総一郎が何も言わずに鼻をすすり上げる音がかすかに聞えることには聞かなかったふりを通して、みつきに微笑んだ。
―カズ…
みつきはそっと一成の胸元に頬を寄せながら、携帯の向こうで総一郎が黙り込んだままみつきの気持ちを推しはかっているのを感じていた。総一郎はみつきに泣きながら一成を殴ったことを攻め立てられなじられたことを思い出しながら、それをはねつけるしか出来なかった日々の苦しさに瞳を閉じた。
(―よかったな…みつき)
我知らずこぼれた涙が一成にばれないように、総一郎は電話の向こうの一成を睨みつけながら、大声を出した。
『なんと言われようとみつきはやらんっ。次は二発じゃきかねえからなっ。覚悟しやがれっ』
負け惜しみとしか取れないような言葉を吐いて、総一郎はそのままの勢いで電話を切った。一成は最後の総一郎の怒鳴り声にまた電話を遠ざけて顔をしかめながら、再度携帯を耳に当てて完全に切られていることを確認しつぶやいた。
「切られた」
「総兄いのバカ…、わからずやっ」
みつきは頬を膨らませ一成の手にした携帯に向かってあっかんべ~としてみせた。一成はふくれ面のみつきをそっと抱き寄せるとその髪へ口付けた。
「ま、いい、また電話する。ちゃんと認めてもらえるまでがんばろう」
「また殴られちゃうよ…?」
一成の腕の中でみつきが一成を見上げて不安げな声を出すと、一成はそのみつきを見つめてその口端を緩めた。
「そうだな…今度は何発だろうな…」
一成の声音は軽快で、楽しみだ、まるでそう言うようにみつきに響いた。誰もが恐れおののき逃げ腰になる総一郎の威圧的な風貌にも、みつき自身の複雑な過去にもひるむことなく自らを包み込んでくれる一成の温かさに、みつきは胸にこみ上げる熱い思いを込めて一成を抱きしめた。
「カズ…ありがと」
「お前のためなら、何でもしてやる…気にすんな」
小さな体と華奢な腕、胸元に寄せられた柔らかなくせっ毛に一成は万感の思いを込めて抱きしめ返すと、みつきの顎を上向ける。通りすぎるだけだったうわべだけの付き合いなど何の意味もない。抱きしめているだけでもこんなに幸せな気持ちになれるのなら、この先何があってもこの手だけは離さない。
「みつき…」
(―お前に会えてよかった…)
みつきに出会えたこと、それが嬉しくて、ただ嬉しくて、みつきが喜んでくれるなら何度でも囁く、何度でも伝えよう。
「みつき…好きだ…ずっと…一緒だ…」
みつきは一成の漆黒の双眸に煌く輝きに吸い寄せられるようにそっと瞳を閉じた。みつきの睫毛が伏せられ、柔らかな唇が抵抗なく一成を迎え入れると一成はもう何も考えることが出来なくなる。もう誰に邪魔されることもない、一成の精一杯の思いを込めた口付けがみつきをいつまでも包み込んでいた。
<<第8章 寝ぐせ姫の涙 終わり>>
次話から最終章となります♪




