婚約破棄は、私から先に申し上げました。五年分の証拠書類を添えて
卒業式典の壇上は、思ったより高かった。
視界に広がる貴族子女たちの顔、顔、顔。礼装の花と香水の匂いが混じった広間に、緊張の熱気がうっすらと漂っている。王立学院最後の式典。晴れやかに締めくくられるべき一日が——今日、少し違う幕切れを迎えることを、エリゼ・カーライルだけが知っていた。
隣に立つクロード王太子が、おもむろに息を吸い込んだ。
その一瞬前に、エリゼは口を開いた。
「本日、私からお伝えしたいことがございます」
よく通る声だった。自分でも驚くほど、震えがなかった。
広間が、静まった。クロードが目を瞬かせる。エリゼは彼の顔を一度だけ見て、すぐに貴族たちへと視線を戻した。
「婚約の解消を、お願いいたします」
間を置かず、懐から封書を取り出した。用意していた白い封筒は、厚さ二センチほどある。
「理由につきましては、こちらの書類をご確認ください。殿下の財務に関わる記録と、私がこの半年で収集した証拠を整理してあります。ご担当の方にお渡しできれば幸いです」
クロードの顔が、白くなった。
エリゼは丁寧に一礼して、壇を下りた。
半年前のことを、エリゼは今でもはっきりと覚えている。
秋の夕暮れ、執務室の廊下を歩いていたとき、侍女のルシアが小声でこぼした言葉だ。「殿下の屋敷の方から来た方と、ミレイユ様のお話で……」。彼女は気づいていなかった。エリゼが廊下の角に差し掛かっていたことに。エリゼが全部聞いてしまったことに。
聞こえてしまった内容は、短かった。
クロードが愛人を囲っていること。婚約破棄の準備を進めていること。相手はミレイユ・ドゥボワ男爵令嬢であること。
その夜、エリゼは自室に戻ってひとり泣いた。
みっともなく、声を殺して、ベッドの端に座ったまま。五年間の婚約期間を頭の中で巻き戻した。クロードに初めて会った日。ぎこちなく交わした言葉。少しずつ慣れていった時間。笑ってくれた顔。嘘だったとは思いたくなかったが、嘘だったのだろうと思った。
朝になった。
窓から光が差し込んで、エリゼは目を覚ました。泣き腫らした目で鏡を見て、少しだけ笑った。馬鹿みたいだな、と思った。そして立ち上がって、机に向かった。
動くと決めたから。一夜かけて泣いたから、もう泣かなかった。
それから半年、エリゼは動いた。カーライル家の人脈を使って情報を集め、商人を経由して帳簿の写しを手に入れた。クロードの署名と実際の支出が一致しない箇所が、十数ヶ所あった。横流しの痕跡だ。愛人への資金提供に王家の金が使われていた可能性が高い。証拠を一枚ずつ封書に重ねながら、エリゼは感情を使わなかった。怒りは判断を鈍らせる。悲しみは足を止める。どちらも今は要らない。
卒業式典まで、あと六ヶ月。先手を打つと決めていた。
壇を下りたエリゼに向けられる視線は、様々だった。
驚愕、同情、好奇、困惑——どれも正直な反応だと思った。エリゼは背筋を伸ばしたまま、出口へと歩いた。泣き顔は見せない。乱れた様子も見せない。それだけは決めていた。
ほとんど出口というところで、腕を掴まれた。
振り向くと、見知った顔があった。
「……ハーグリーヴス侯爵子息」
アルヴィン・ハーグリーヴス。宰相の息子で、クロードの側近として王宮に出入りしていた男だ。年齢は二十二か三。黒い礼服に、真面目すぎるほど真面目な顔をしている。
エリゼは表情を変えずに言った。「手を放してください」
「少しだけ、時間をいただけますか」
声が低くて、しかし穏やかだった。懇願というより、確認を求めるような口調。エリゼは少し考えてから、頷いた。
廊下の隅、柱の影。広間の喧騒が遠く聞こえる。アルヴィンはエリゼと向き合い、わずかに目を細めた。
「先ほどの封書の中身——」
彼はそこで一度言葉を切った。
「私が三ヶ月かけて集めたものと、ほぼ完全に一致しているはずです」
エリゼは瞬きした。
アルヴィンが続ける。「私は王家の命を受け、殿下の財務を内部から調査していました。横領の疑いがあると、三ヶ月前に陛下から下命があった。証拠はほぼ揃っていましたが、もう一押しが必要でした。ヴェルドール領への不正送金の記録が、どうしても見つからなくて」
「……それなら」
エリゼは静かに言った。
「持っています。ヴェルドール領の商人を経由した記録が二枚、封書の中にあります」
アルヴィンの目が、僅かに見開かれた。
長い沈黙があった。
「なぜそれを」
「私のほうが、殿下の周辺を長く観察していましたから」
五年間の婚約期間。クロードの周りの人間関係も、資金の流れも、エリゼには把握する機会があった。アルヴィンが外から調査するより、エリゼが内側から集める方が、あの二枚には届きやすかった。
「……協力を、お願いできますか」
アルヴィンが頭を下げた。
真剣な、迷いのない礼だった。
王太子の側近が、婚約を解消されたばかりの伯爵令嬢に、頭を下げている。エリゼは少しの間それを見てから、
「条件があります」
「おっしゃってください」
「カーライル家の名誉が毀損されないよう、書類の出処については最後まで伏せていただくこと。私の家族は何も知りません」
アルヴィンが顔を上げた。その目に何か、驚きに似たものが浮かんだ。
「……了解しました。約束します」
エリゼは頷いた。「では、協力しましょう」
それが、二人の始まりだった。
翌日の王宮は、嵐の前のような静けさがあった。
エリゼは呼び出しを受け、正装で評議室に入った。上座には国王陛下と重臣たち。クロードは向かいの席に座り、ミレイユを隣に従えていた。こういう場にミレイユを連れてくる感覚が、エリゼには理解できなかった。
アルヴィンが立ち上がり、告発の概要を述べ始めた。声は静かで、感情がなかった。淡々と積み上げられる事実が、まるで石を一つずつ置くように、室内に積み重なっていった。
クロードが口を開いた。「待ってくれ。これは誤解だ」
「どの点が誤りか、具体的にご指摘ください」とアルヴィンが答えた。「帳簿の日付、署名、金額——どれも原本と照合済みです」
「そんなものは」クロードの声が上ずった。「捏造される可能性がある。だいたい、この調査にカーライル家が関わっているのではないのか? 昨日婚約を解消したあの女が、私を陥れようとして——」
「それについては、私がお答えします」
エリゼが立ち上がった。
広間が静まった。彼女は感情を出さず、しかし一言一言、丁寧に口を開いた。
「殿下。帳簿の捏造を疑うのであれば、ヴェルドール商会の元帳と照合してください。こちらは原本が商会に保管されており、カーライル家は一切関与していません。次に、この日付の送金伝票と、殿下の印璽が押されたこちらの承認書をご確認ください。二枚の間には、三日間の空白があります。その空白の間に何が動いたか、ご説明いただけますか」
クロードは黙った。
エリゼは続けた。「最後に、これは私個人への中傷に対するお答えですが——私がこの書類を集めたのは、殿下を陥れるためではありません。ただ、自分が婚約を解消するにあたって、不当な汚名を着せられたくなかっただけです。以上です」
一礼して、着席した。
重臣たちの間に、低いざわめきが広がった。
ミレイユが立ち上がったのは、その直後だった。
「これは全部でたらめよ! クロード様は悪くない、全部カーライルがでっち上げた話で——」
「ミレイユ」
クロードが短く制した。しかしその声には、庇う意志がなかった。ただ場を収めたい、という投げやりな響きがあった。
ミレイユが動いた。止める間もなく、彼女は懐から取り出した書類の束を机に叩きつけた。
「これを見てください! クロード様が私に送ってきた手紙よ。私をずっと大切にしてくれると書いてある。でもこの男は——この人は——」
声が震え、涙が溢れた。
エリゼは目を細めた。
アルヴィンがミレイユの差し出した手紙を一枚取り上げ、静かに読んだ。そして国王陛下へと向けた。
「陛下。この手紙を拝見しますと、殿下がミレイユ・ドゥボワ令嬢に対して、婚約後も継続的に財を提供すると約束していたことが読み取れます。これはカーライル令嬢への不誠実に加え、王家の財への不正流用を示す証拠の一つとなります」
クロードが顔を覆った。
ミレイユが、自分が出した手紙で、クロードをさらに追い詰めていた。二人の打算的な関係が、室内全員の目の前で、静かに解体されていった。
評議が終わり、廊下に出たとき、エリゼは初めて深く息を吐いた。
壁に手をついて、天井を仰ぐ。緊張が引いていくのがわかった。足が少しだけ震えていた。気づかれないよう、静かに壁から離れた。
「エリゼ殿」
アルヴィンが後ろから来た。人払いされた廊下に、足音だけが響いた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」とエリゼは答えた。「必要なものが、揃いました」
「……見事でした」
一拍の間があった。アルヴィンにしては珍しく、言葉を探しているような間だった。
「あの場で感情を出さずに、正確に論点を突いていた。私では、ああはできなかったと思います」
「感情を出す場所がなかっただけです」
エリゼは答えた。自分でも少し驚いたのは、それが言い訳でなく、本当のことだったからだ。
「あなたも知らない話ですが、半年前に全部わかったとき——一夜だけ、みっともなく泣きました。朝になったら動くと決めたので、それからは泣いていませんが」
アルヴィンが何も言わなかった。
エリゼは続けた。「信じていた人から裏切られると、最初は怒りより悲しみが来るんですね。そのことに、自分でも驚きました。それだけ、期待していたということだと思います」
「……一人で、半年間」
アルヴィンの声が、かすかに低くなった。
「誰かに話しましたか」
「話せる相手がいませんでした。家族に心配をかけたくなかったので」
「そうですか」
しばらく、廊下に沈黙が続いた。
窓から西日が差し込んで、石畳の床に細長い影を落としていた。エリゼはその影を見ながら、奇妙なことに気づいた。今この廊下で、こんな話を誰かにしていることが——不思議と、嫌ではなかった。
「次は、一人でしなくていい」
アルヴィンが言った。
エリゼが顔を上げた。彼は窓の外を向いたまま、どこか不器用な表情をしていた。言葉を探した末に選んだものが、あれだったのだとわかった。気の利いた慰めではなく、余計な飾りもなく、ただそれだけを言った。
エリゼはしばらく黙っていた。
胸の奥に、静かな何かが落ちていくような感覚があった。涙は出なかった。泣く必要も、もうなかった。ただその言葉が、思ったよりずっと大きな場所に届いた。
「……わかりました」
それだけ答えた。
アルヴィンが初めて、少しだけ表情を緩めた。
それから数ヶ月が経った。
クロード王太子は王位継承権を剥奪され、地方の小領への転封が決まった。ミレイユ・ドゥボワは男爵位を返上し、王都を去った。二人がその後どうなったかを、エリゼは特に調べなかった。知る必要がなかった。
カーライル伯爵家は何事もなく存続し、エリゼは当主代理として仕事に没頭した。書類の確認、領地の視察、取引先との交渉。忙しい日々は、むしろ心地よかった。頭が動いているときは余計なことを考えなくて済む。
アルヴィンは定期的に顔を出した。
最初は「引き継ぎの書類について」だった。次は「陛下からの感謝状をお届けに」だった。その次は「この案件についてご意見を」だった。エリゼは毎回、用件だけ処理して帰そうとした。毎回、なぜかそうはならなかった。書類が終わると話が続いて、話が終わると次の書類が来た。気づけば、週に一度ではなく二度、三度になっていた。
エリゼはそのことに、特に言及しなかった。
アルヴィンも、特に説明しなかった。
二人の間には、何と呼べばいいかわからない関係があった。信頼とも、友人とも、仕事仲間とも、少し違う。名前をつけないまま、日々が積み重なった。
ある昼下がり、エリゼが執務室で書類と格闘していると、扉を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたのはアルヴィンだった。今日は珍しく、何も持っていなかった。手ぶらで、入口に立ったまま、微妙な顔をしている。
「……今日は仕事の話ですか」
エリゼは羽根ペンを置いて問うた。
「今日は違います」
アルヴィンが室内に入ってきて、窓際に置いてあった花を取り上げた。庭師が週に一度替えていく、白い小花だ。彼はそれをエリゼの机の上に置いた。
「これは」
「持ってきました」
「なぜ」
「渡したかったので」
エリゼは花を見て、アルヴィンを見て、また花を見た。
この男は本当に、感情表現が下手だ。大切なことを言うとき、ほぼ必ず言葉が足りない。廊下で「次は一人でしなくていい」と言ったときもそうだった。それでも意味は全部、届いてしまうのだから、たちが悪い。
「……仕事より難しいですね、あなたは」
エリゼは呟いた。
アルヴィンが、きょとんとした顔をした。珍しい顔だった。エリゼは小さく笑った——物語を通じて初めての、力の抜けた笑い方だった。
花を手に取った。白い小花は、思ったより香りがよかった。
「お茶でも飲みますか」とエリゼは言った。「書類は、あとで一緒に見ましょう」
アルヴィンが「はい」と答えた。その声が、少しだけ嬉しそうだったことに、エリゼはちゃんと気づいていた。
窓の外に、穏やかな午後の日差しが続いていた。
終幕




