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第二十六話

 魔獣が地面を蹴った。


 先ほどとは比べ物にならないほどの踏み込み。

 アリアには目もくれずに、雪と土を後方に吹き飛ばして、一直線にロブへと迫っていく魔獣。


「ちっ!」


 ロブはその直線的な動きに反応すると転がって横に飛ぶ。

 だが、その動きも読まれていたかのように、魔獣は地面を叩いて体勢を変える。

 そしてロブに追い縋ると鋭い爪による一撃を男の肩口に振り下ろした。


「ぐぁっ…!」


 ロブの肩から鮮血が飛び散り、体を地面に打ち付けて転がっていく。

 満足に避けることすら許されなかった。


 明らかに目の前の魔獣の強さは、自分よりもはるかに上だった。


(クソッ……なんだこいつは……!)


 ロブは肩の激痛に耐えながら、何とか体を起こして牽制するように魔獣を睨み付ける。


 視線は固定したまま、傷の具合を確認する。


 傷は深刻だった。

 多少の傷であれば無視するべきだと思うが、右腕が言うことを聞かない。

 少なくとも今すぐには、弓を弾くことは困難であった。


 そして脳裏に浮かんだのは、“逃げ”だった。

 当然、簡単に逃げ切れるとは思えないが、自分があの魔獣に勝つことは不可能に近いため、逃げる方が生き残れる可能性は高いはずだ。


 それと同時に魔獣が追撃してくる気配がないことを不思議に感じた。

 魔獣からすれば手負いの状態のロブは絶好の獲物のはずだったからだ。


「……っ」


 ふと視界の端に、立ち尽くしたままのアリアが映る。

 少女は逃げる気配も動く気配もない。

 恐怖で震えることすら忘れて、完全に固まってしまっているようだった。


 更に最悪なことに魔獣の視線もまた、再びアリアの方を向いている。


(……チッ、使えねぇガキが)


 舌打ちをして悪態を吐く。

 しかし、ロブは反射的に立ち上がり、地面を強く蹴っていた。


「こっちだ、クソ犬がぁ!!」


 怒鳴り声と同時に、立ち上がったときに掴んでいた石を魔獣へと投げつけた。


 男の狙いは当てることではなかった。

 魔獣の注意を引くためだ。


 真っ直ぐに飛んだ石は魔獣の額に当たって、乾いた音を立てた。

 その瞬間、魔獣の意識がロブへと向く。


 魔獣の濁った瞳が、獲物を定めるように細められた。


「……来やがれ」


 狙い通りの結果を得たロブは、次は弓を投げ付けてまた魔獣を挑発する。

 怪我で弓を弾けない以上、今のロブには必要はない。

 例え、使えたとしてもあの魔獣は普通の魔獣とは違い、素直に矢に当たってくれるとも思えない。

 腰に吊るしていた手斧を構えた。


 魔獣が低く唸り、跳躍した。

 そこにロブに対する警戒はない。


 ――速い。

 そう思った次には振り下ろされる爪。

 ロブは手斧で受けようとするが、衝撃は想像を超えていた。


「っ、ぐぅ!」


 耐え切ることができずに弾き飛ばされる。

 飛ばされた拍子に手斧が手から離れて、雪の上を転がっていく。

 そして間髪を入れずに魔獣の追撃。

 体制を整えることも出来ないままのロブは完全に無防備な状態で目だけは魔獣を見据えていた。


 遊びは終わりだと言わんばかりに飛び込んでくる。

 鋭く尖った牙がロブの喉元へ迫る。


(終わっ――)


 そう思って目を閉じた。

 次の瞬間。


 ――ギィンッ!!


 甲高い金属音が森に響いた。

 いつまで経っても、訪れない死にロブは目を開けた。

 

 魔獣の牙は受け止められていた。

 何の変哲もない一本の剣に。


「……ギリギリ、間に合ったみたいだ」


 落ち着いた声に安堵の色が伺える。

 剣から目を離して視線を向けるとそこには見知らぬ茶髪の男が立っていた。

 紺色の外套を羽織り、片手で剣を構えたまま魔獣と拮抗している。


「下がってください」


 魔獣を見据えたままで茶髪の男は短く、それだけ告げる。


「……!あ、あぁ…すまねぇ!」


 自分の手に負えないと思っていた魔獣を片手で抑えている茶髪の男に愕然としていたロブは、その一言で意識を取り戻す。

 そして逆らう余地はない言葉に、転がるように後退していく。


 ロブが戦線を離脱した直後、均衡は崩れる。

 魔獣が首を振り、剣が弾いて遠くに退がった。

 茶髪の男もまた軽々と後方へ飛んだ。


 1人と1匹の距離が開く。

 魔獣は新たな獲物を認識して、苛立つように唸り声を上げた。


「……なるほど」


 茶髪の男は剣を軽く振って、盾と共に構え直して魔獣を観察する。


「暴走した魔獣か…」


 魔獣が男の言葉を掻き消すほどに吠える。

 一拍を置いて地面を抉りながら男に飛び掛かっていく。

 その速度は速くロブには魔獣の姿が見えていなかったが、茶髪の男に焦る様子はなかった。


「遅いな」


 そう言って懐へ潜り込むと、魔獣の攻撃に合わせて横薙ぎに剣を振るう。

 

 なんてことはない、ただの一撃で魔獣の血が舞う。

 着地した魔獣の胴に深い傷が走っていた。


「ガァァァッ!!」


 茶髪の男を向き直って咆哮。

 直様、反撃の爪が振るわれるが、空を切る。

 反撃の最中には、男はすでに魔獣の背後へ回っていた。


 魔獣もそれに気付いて、がむしゃらに攻撃を繰り返していく。

 しかし、どの攻撃も避けられ、弾かれる。


「どうすることも出来ないか…」


 その様子をしばらく見たあと、静かな声で呟いた。


 魔獣の攻撃が男に届く気配はない。

 引き際を失ったのか、それとも逃げることさえ頭にないのかわからない。


 涎を垂らしながら、狂ったように暴れる魔獣。

 茶髪の男は小さく息を吐くと、魔獣の爪を大きく弾いた。


 そして――


「ごめんな」


 悲しそうな瞳で魔獣に伝えると一気に距離を詰めて、一閃。

 それは魔獣の首元を正確に断ち切る斬撃だった。


 魔獣の動きが止まり、数秒後に首から血が吹き出すと、糸が切れたようにその体が崩れ落ちて雪に埋もれた。


 雪を赤く染めるほどに森は静寂を取り戻して行った。

 あまりの展開に荒い息を吐いているロブ。

 そして、ロブの後ろには、いつの間にかへたり込んで動けないでいたアリア。


 その中で、ただ一人。

 剣を収めた男だけが、何事もなかったかのように立っていた。


「……大丈夫か?」


 男は振り返るとアリアたちに問うた。


 ロブもアリアもすぐには答えられなかった。

 2人とも命が助かった実感が、まだ追いついていなかったからだった。

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