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夢想花〜藤森の姫と狼達の奏でる物語〜  作者: 桜柚
第壱章 記憶を巡る旅路
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追う背中、伸ばす掌【肆】


「なぁ、本当に俺の事は知らねぇんだな?」


「何度もそう言ってるじゃないですか」


やはり変わらない返答。知らない、と雛乃は首を横に振る。そして不服そうに微かに頬を膨らませてもいた。


それを見てしまうと、自分が酷い事をしてるようで止めたくなる。


だが、ここで簡単に諦める訳にはいかなった。ようやく掴めた手掛かり。彼女を簡単に手放す事が出来るはずもなく。和助は奥の手とも言える言葉を口にした。


少女が誰よりも信頼し、懐いていた彼の名を。


「……栄太郎の事も覚えてねぇってのか?」


「っ、それは……」


否定しようとしても言葉が続かず、上手く否定する事が出来ない。雛乃は唇を噛み締めると、そのまま顔を俯かせる。


和助から驚きを隠すように視線を反らしたものの、雛乃の心臓は早鐘を打ち続けていた。

“栄太郎”それは先刻一琉からも問われ、戸惑いを見せた名前。不思議な感覚に陥ったその名前を、出来る事なら二度と聞きたくはなかった。


嫌だから、という理由ではない。自分が分からなくなりそうで怖いからだ。脳内に響く声、見覚えのない青年。雛乃の記憶にはない情景が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。


それを振り払うように雛乃は自らの腕を強く握り締める。そうでもしなければ記憶の中に飲み込まれてしまいそうだった。


俯いたまま、何も言葉を発しない雛乃に和助は緩く目を細める。


「……知ってんだな?」


「っ、知らない! 分からない、そんな人……!!」


何も聞きたくないと耳を塞ぐ雛乃の動きを制し、和助は再び雛乃を腕の中に閉じ込める。


「何でそこまで否定すんだよ。俺達が、俺がそんなに嫌か? どんだけ心配してたか……!!」


和助は声を震わせながら雛乃を強く抱き締めた。痛みに顔を歪めながらも、雛乃はそれを拒む事が出来ない。


(……暖かい、この温もりは懐かしい……? 私は、この人も知ってる……)


初めて出会ったはずなのに懐かしく思う、この感情。雛乃は思わず、和助の着物を握り締めていた。


色々と考えたい事はある。だが、頭痛が激しくなり思考が定まらない。考えれば考える程、深みに填まっていく気がした。


「……お雛? どうした?」


異変に気付いた和助は雛乃へと声を掛ける。雛乃は返事の代わりに和助の着物を更に強く握り締め、首を何度も横に振り続けていた。


怯えさせてしまったのかと思ったが、どうやら違うらしい。小さく息を吐き雛乃は言葉を紡ぐ。


「ッ、痛い……。頭、い……たいの……」


雛乃の表情を見るからに痛みは相当なものらしい。瞳を閉じ唇を噛み締め、とても辛そうだった。


和助は恐る恐る雛乃の額に手を当ててみるが熱はない。突発的な頭痛だろうか。


医学の知識が乏しい和助は、こういう時どうしたら良いのか分からず、対処に戸惑ってしまう。だが、苦しむ雛乃をこのまま黙って見ている訳にはいかなかった。


「……アイツんとこに連れて行きゃ、何とかなるかもしれねぇな」


和助の知り合いに、医学に精通した者が一人だけいる。診せれば症状を緩和する事が出来るかもしれない。


雛乃は和助の着物にしがみつき、荒く息を吐き続けている。雛乃の特徴ある円らな瞳も今は閉じられたままだった。

ゆるゆると優しく頭を撫でながら和助は雛乃に声を掛ける。


「お雛? 大丈夫か? 待ってろ。直ぐに医者に診せてやるからな」


雛乃の身体を抱き抱えるようにして、和助はその場から立ち上がった。


和助の動きと声に僅かに反応し、雛乃は薄く目を開いた。だが、焦点は上手く定まっておらず何処か空ろである。


和助を視界に捉えると雛乃は淡く微笑み、消え入りそうな声で


「……しんにぃ、ごめんね……」



そう呟いた。


和助は目を見開き、驚きの余り呼吸を止める。カラカラに渇く口内を潤すように唾を飲み込むと、息と共に言葉を吐き出した。


「お雛……今、何て……。俺ん事を、今何て呼んだんだ?」


和助が再び声を掛けるものの、返事が返ってくることはない。雛乃は既に気を失い重力のまま和助に身を預けていた。

意識を失ったことにより痛みが引いたのか、雛乃は穏やかな表情をしている。


その様子に和助はホッと安堵の息を吐くが、胸中は複雑だった。


先刻聞いた言葉が、頭から離れない。懐かしい呼び名で自分を呼んだ雛乃の声が、ずっと脳内に響いている。


「……やっぱり、お前はお雛なんだな……」


寝顔を眺めながら、和助は雛乃の頬に掛かる髪を優しく払う。


自分をあの呼び名で呼ぶのは知り合いでただ一人、お雛だけだった。何も知らない者が、安易に呼べる呼び名ではない。

お雛、本人でなければ知り得ない情報だ。


お雛である可能性が高くなった以上、早く連れ帰った方が良いだろう。和助が雛乃を抱き抱えたまま、路地裏から出ようとした時だった。


「……その娘を、離せ」


黒衣の着物を纏った一人の青年が道を塞ぐように現れる。利き手は腰の刀に伸びており、いつ抜刀しても可笑しくない状態だった。


青年の視線は若干、殺気じみている。それに気付きながらも和助は平然としていた。


「何だ、お前。コイツの知り合いか?」


「……そうだ」


頷きを返し和助は鋭さの増す殺気に目を細める。それは、腕の中にいる雛乃を見てのものだろう。


知己の娘が、素性の分からない輩に抱き抱えられ、ましてや人通りのない薄暗い路地裏から出て来たとなると、警戒するのは当然だ。

和助も逆の立場なら、確実に相手を斬り殺していても可笑しくはない。青年の反応は、至極当然のことだった。


「そう睨むなよ。コイツが、ぶっ倒れたから介抱してただけだ」


そう言って寝息を立てる雛乃の頭を撫で和助は薄く笑みを浮かべた。


その意味深な笑みに青年――斎藤は、微かに眉を寄せつつ和助を鋭く見据える。雛乃が倒れるに至った理由は分からない。病み上がりとは言え、雛乃は元気だったはずだ。


無理矢理眠らされたか、或いは――


斎藤はカチリ、と鯉口を切る。それは此処を簡単に通らせないという、意思表示でもあった。


そんな斎藤の意図を察したのか和助は、雛乃を路地裏の壁際へと下ろし身体の負担にならない体勢に寝かせる。


寝かせる際に和助は雛乃の頭を撫でながら、耳元に唇を寄せる。斎藤には聞こえない声量で、耳に残るようにゆるやかに呟く。


「お雛、待ってろ。必ず、迎えに行くからな」


この言葉は、和助自身に言い聞かせる言葉でもあった。


和助はこの場を二人で切り抜けられるとは思っていない。まずは逃げ切り、雛乃の存在を知らせることが、何よりも重要だと思っていた。


相手の態度を見る限り、雛乃を危険な目に合わせる気はないようである。むしろ大事に扱っているようだ。


ならば、ここは様子見として適当に相手をし、逃げた方が得策かもしれない。


腰の刀をスラリと抜くと、和助は斎藤と向かい合う。散歩がてらに市中に出ていた為、刀は一本しか帯刀していない。


「早いとこ帰って酒飲みてぇんだが、付き合ってやるよ。てめぇみたいな寡黙な奴には負けたくねぇしな」


「……貴様」


おどけた口調で挑発する和助に、斎藤の目付きが更に鋭さを増す。笑みを深くする和助が刀を構えると同時に、斎藤が抜刀する。


――そうして、お互いの身元を探る、戦いの火蓋は切られたのだった。

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