シュレディンガーのおっさん
巨大な研究室の奥に設えられた、巨大な鋼鉄の箱を目の前に、俺は言葉を喪っていた。
鋼鉄の箱は、通風口すら直接外気に繋がっていて、少なくともこの研究所から内部の様子を知る術はない。
「⋯佐々木は、この中なんだな?」
思わず声に苛立ちが混ざる。脚立に乗って上部を伺ったり、なんか超音波を照射して内部測定のようなことをしようとしている助手たちを睨み、改めて鋼鉄の箱を見上げる。⋯部屋にして、四畳半はありそうなサイズだ。
この内部で、助手の佐々木が命の危機に晒されている。
「⋯で、誰だ。シュレディンガーのやつを人間でやってみようぜとか考えちゃったのは」
問うまでもないとは思ったが一応聞いた。案の定、今年から院生になった稲生が手を挙げた。
「またお前か!」
稲生はいつも通りのしれっとした無表情で、ふいと目を逸らした。
「⋯思考実験とか、シュレディンガーの猫とかがイマイチよく分からなかったので、とりあえずやってみるか、と」
「いや聞けよ!!分からなかったなら聞け!!」
「聞いても分からないし⋯やってみる方が手っ取り早いじゃないですか」
「こんな鋼鉄の箱作って佐々木放り込むより、俺に聞く方が手っ取り早いよね!?」
「聞くのとか⋯恥ずかしいし」
Z世代の優先順位が全然分からねぇ!!
「で、お前本当に毒ガス装置なんて作ったのか」
「原子が崩壊する際に発する僅かなチェレンコフ光を感知したら毒ガスが散布されます」
「すげぇなお前」
溶接は出来るし工学系の技術は大したものなのに、なんでこいつ量子力学の研究室に来ちゃったんだ。
「第一シュレディンガーの猫の話なんてなぁお前⋯ただの雑談じゃねぇか思考実験の!最悪、理解できなくてもいいんんだよこんな話は!!」
「皆が理解出来てる風なのに、僕が理解出来ないのは許せないんです!!」
ダン、と鋼鉄の壁を殴って稲生が叫んだ。何人かが目を逸らす。
「うわやめろ、中の佐々木がビックリするだろう」
「佐々木が何だっていうんですか!!」
「しれっと呼び捨てにすんな!!一応目上だぞ、敬え!!⋯そうだ、お前なんで佐々木を入れた!!」
「猫入れたら可哀想じゃないですか!!50%の確率で毒ガスを浴びるんですよ!?」
「佐々木は可哀想じゃないのかよ!!」
「彼はなんか⋯可哀想じゃない!!あのおじさんには悲壮感がない!!」
「お前それ間違っても佐々木の前で言うなよ⋯」
「いつもそこら辺できったねぇ顔して寝てるし!四方を鋼鉄の壁で囲んでも起きないし!!」
「あいつも⋯ちょっとそういうところあるけど!!」
ご丁寧に溶接までされている⋯すごい音がしただろうし、何なら火花だって飛んできた筈だ。徹夜の実験で疲れていたのは理解するが、どうして周囲でここまでされて起きないんだ佐々木は。
「なんならまだ寝てるんじゃないですかあの人は」
「―――原子崩壊が起きてなければな!!」
シュレディンガーの猫―――中の様子が観測できない箱の内部に猫を入れる。箱の中には原子崩壊を観測したら毒ガスを発生させる装置があり、50%の確率で原子は崩壊する、とする。つまり猫の生死の確率は半々。我々が箱を開けるまで、生きている猫と死んでいる猫は重なり合って存在していて、箱を開けて確認することで初めて事象が収束して、どちらかの状態の猫が現れる⋯まじでこんな装置が存在するとか、そういう実験が実際に行われたとかではなく、量子力学的思考でこの状況を説明すると、こんな変なことになりますよ、という量子力学的記述の不完全さを説明するために用いられたパラドックスだ。今ピンとこないならそれでもいい、そのうち分かってくるものなのだが⋯。
そんな詭弁のために毒ガス吸って死ぬのはさすがに不憫過ぎる。何しても起きず寝顔がきったねぇだけで。俺は意を決し、几帳面に収められた溶接機を取り出した。
「⋯仕方ない、開けるぞ」
「いや、ちょっと待ってみませんか」
遮光マスクを拾う俺の手を抑え、稲生がぼそりと呟いた。
「何だ。早いに越したことはないだろ。⋯大村君、念の為、生徒と他の助手を避難させてくれ」
一番「ちゃんとした」助手に指示を出す。大村君は全員を研究室から出すと、窓も全開にしていってくれた。
「稲生も出ろ、俺が一人で開ける」
こんな馬鹿でも我が研究室の生徒だ。万が一にも死なせるわけにはいかない。
「いや、やっぱり開けるのはやめましょう」
「何なんだよさっきからお前は!?」
人が断腸の思いで悲愴な自己犠牲を決心した時にてめぇは!!
「考えてもみてください⋯ここを開けるってことは、観測するということでしょう」
「だったら何だ」
「我々が観測しない限り、この鋼鉄の箱の内部には⋯だらしなく寝ている佐々木と、毒ガスを浴びてのたうち回る佐々木が重なり合って存在するんですよ」
「え⋯」
いや、だからそれはただの詭弁で⋯
「一人でもきったねぇのに、たまったもんじゃないですね」
「お前、佐々木が嫌いなの?」
「逆に今、ここを開けてしまったら⋯事象が収束して、どちらかの佐々木が現出してしまう」
⋯例の思考実験を真に受けている状態の教え子を、どこから説得すればいいのだろう⋯というか稲生は20数年生きてきて、観測するまでは箱の中に二人の佐々木が存在するなどと本気で思っているのか?
「ここを開けなければ、毒ガス装置が作動した世界線は永遠に封印される⋯ということになりませんか」
「そんなこと言ったら存在忘れてたザリガニの水槽は忘れている限り永遠に臭くならないのか!?」
「それは先生、『匂いを嗅ぐ』という観測が成立してしまっているからでしょう」
そう言って胸を反らす稲生。ダメだこいつ、詭弁に呑まれて屁理屈言い始めた。
「観測がどうこうじゃねぇんだよ!⋯佐々木が居なくなれば佐々木の家族が騒ぐだろ!」
「きったねぇ家族が!?」
「本当にお前いい加減にしろよ!!いいからここを出ろ、ここが開いたら半分の確率で毒ガスが出るんだろ」
「あ、俺は大丈夫なやつです」
―――は?何て?
「⋯いや、毒ガス」
「俺は大丈夫なやつです」
「⋯え?そりゃ人によって効果は違うだろうけど、全然大丈夫ってことある?」
「はい、俺は杉花粉症じゃないので!」
―――杉⋯?
「え、え、さっき毒ガスって」
「致死性のなんて言いましたか」
「言ってないけどねぇ!!」
「薬科の奴にマスタードガスの精製頼んだら向こうの教授に告げ口されて退学になるとこでした」
「やる気はあったのかよ!!」
「その教授に『杉花粉くらいにしろ』と言われ、仕方なく近所の山で未熟花から杉花粉をわっさわさに集めてきて」
「お前もその教授も花粉症になってしまえ」
しかし困ったことになった。佐々木もだが、俺も重度の花粉症なのだ。
「つまりこの中には、杉花粉で悶絶している佐々木ときったなく寝ている佐々木が重なり合って存在している」
それはとりもなおさず、ここを開けるとこのバカが必死に集めてきた杉花粉が爆発的に放出されている可能性が50%、ということだ。
―――すまぬ、佐々木。俺はあけたくない。
「う⋯うぉ!?なんだこれ!?壁!?え、なにこれ黄色いの!!!うぉ、うげぇげっほげっほ」
「原子が崩壊したようですね」
「地獄絵図じゃねぇか」
「不覚にも『聴く』という観測行為が成立してしまったようです。この検証は失敗だ」
「―――もういいよそれで」
俺は稲生のバカに溶接機をそっと手渡すと、研究室を後にした。




