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 今夜も僕は毎日の習慣で、リビングにあるテーブルを挟み、妻と向かい合って話をしている。淹れたての緑茶が、冬の寒さで冷えた身体を温めてくれる。

「パパ、ママ、おやすみなさい」

「おやすみなさい、ユキちゃん。寒いから、風邪をひかないようにお布団をたくさん重ねて寝ましょうね」

「はーい」

 妻は幼い娘に優しい微笑みを向けると、それを見た娘がにっこりと花が咲いたような笑顔を浮かべる。娘が二階へと上がり、寝室のドアが閉まる音を確認すると、彼女は僕に向き直る。

「ねーねー、私って君の母親に似てるよねー! モノマネ選手権とかあったら余裕でグランプリいけちゃうかも!」

 先ほどまでの優しげな微笑みとは打って変わり、急に弾けるような笑顔になる彼女。

「なんかさー、私が一方的に喋ってるだけじゃつまんないよ。早く喋れるようになんなよー」

 何をいっているんだ。こうなったのも全てお前のせいだ。

 口にしたい言葉は音として空気を震わせることはなく、僕の脳内をグルグルと廻るだけ。彼女は静かに立ち上がると、電話機の横に置いてあるメモパットとボールペンを僕に差しだす。

 僕は用紙を一枚破り、それに“どういうつもりだ”と書こうとした。しかし一文字も書くことはなく、彼女は僕の手からペンをひょいとむしり取る。

「あ、そうだ。明日から始めようと思うんだけど」

 笑顔を浮かべる彼女は言い終えると、もう一度僕の手にペンを持たせる。その笑顔は無垢な少女そのものだった。

“なにを”

「なにを……って。あはははっ。君の母親が君にしていたことだよ」

 突如蘇る記憶。消えてくれない。思い出したくない。お母さん。ママ。痛いよやめて。

『雄哉大好きよっ! 雄哉はパパみたいにいなくならないわよねっ!』

 頭を横に振り、忌まわしい出来事の記憶を振り払う。

“やめろ。冗談でも言うな。どうしてこんなことをする”

 それは半ば殴り書き。

「おおー、コワイコワイ。はははははは、え、どうしてこんなことするのかってさ、決まってるじゃん」

 彼女は一呼吸おくと、暗く歪んだ笑顔を作る。

「楽しいからだよ。君がトラウマで苦しむのを見てるだけなのに、なんでだろーね?」

「……! っ!」

 何も喋ることができないのがもどかしい。思い切り怒鳴ろうとするが、口からは空気が漏れる音しか出てこない。

 ……そうだ。こいつを殺そう。こいつが僕の母を殺したように、包丁を何度でも頭に振り下ろしてやろう。今でも鮮明に思い出すことができる。飛び散る脳味噌、鮮血、嗤う少女。

 力の限り殴りつけてやろうと、振り上げられた拳。

「変なこと考えるの、やめなよ」

 うるさい。

「あ、もしかしてさ、あの日のことでも思い出してんの? 疑問とかもあるんでしょー? なんで殺されたはずの私が生きてたのか、とかさ」

 黙れ、黙れ。殺さなくとも、一発くらい殴らせろよ。

 ためらいなく振り下ろした拳は、彼女の脳天を直撃した。彼女の顔を見ることはしなかった。そもそも彼女がどう思っているのかなんて、僕には関係ない。

「……痛いなあ。女の子に暴力ふるうなんて、いーけないんだっ!」

 彼女は「あっかんべー」と小声で呟くと、涙目で僕に舌を出す。

「まあ許してあげるけど。君は今声を出せない状態だからね。私が一方的に話してるだけだとフェアじゃないよね。ごめんごめん」

 そういって浮かぶ涙を袖で拭ったきり、一言も話さなくなる妻。これは僕の意見を無言で促しているのだろうか。僕は、すっかり冷めてしまった緑茶で口内を潤す。

“なんで生きている?”

 ペンを置き、彼女から見やすくなるようにメモ用紙を逆さにする。

 すると彼女は、自らの右腕をゆっくりと捲り上げる。上腕から手首にかけて、女性――いや、男性にとっても多大な精神的苦痛の原因になりかねないと思うほどの、大きな傷痕が何本も刻まれていた。それでも彼女は笑っていた。支離滅裂な言葉を吐いて笑っていた。

「これくらいで死ぬとでも思ったのかな、君の母親。もしそうだったら、君にしてきたことには全部殺意があったってことだよね。あはは、こわーい! え、ちょっと待って。臆病者の分際で私を殺そうとしたってこと? あは、すんごく痛かったなあー! 血がドバドバ出てさ! それを見たアイツは逃げるように自分の家に入ってさっさと鍵閉めちゃうんだよ? 腕を押さえてうずくまる私を置いてさあ! 木に取り囲まれてるから、だあれも通りかかってくれやしないし! なんで助かったんだろね? 自分でもわかんないや。教えてよ雄哉くーん。くひひひひ、ひひひ!!」

 いい終えた彼女は、過呼吸を起こしながら壊れたようにただ笑うだけ。

 僕には彼女がわからない。なぜ僕を助ける素振りをみせながらも、苦しめるのか。何がしたいのか。本当に楽しむだけなのか。

“君は何が目的?”

「何回言わせる気ー? だから楽しいからだって! ぷっくくくきき! 君の人生は私にとって娯楽なの! それ以外に理由なんて無いし。……ハイおしまーい。いい夢みよーね。おやすみー」

 妻は伸びをしておもむろに椅子から立ち上がり、そそくさと寝室へと引き上げていく。

 テーブルから身を乗り出して、妻めがけて慌てて伸ばした右手は、虚しく宙を掴む。

 一旦降ろした手を、顔の前に持ってくる。この手は何も掴めなかった。だが掴んだから何が変わるということでもない。僕は妻の道化師。そう断定されてしまった今、希望を掴むために僕にできることは、何も思いつかなかった。

 もういいや。妻がいうことの真偽なんて。僕は無力で、証明する術なんて無いから。母という鎖を解いた人が新たな鎖になるだなんて、なんと皮肉なことだろうか。誰がこうなることを予想していただろうか。

 冷めきったお茶を飲み干して、脳を目覚めさせる。台所から包丁を持ち出し、それの刃先をタオルで包んで小さめのリュックサックに入れる。中身がスカスカのそれを背負うと、玄関のドアを静かに開けて外に出る。身を刺す寒さに、もう少し厚着をしてきたらよかったと思うが、もう引き返す気はない。

 向かう場所は秘密の場所。少女との綺麗な思い出だけが詰まった森。


 森に入るとまず目につくのは、かつて住んでいた家。蓋をしたい記憶だけを残す場所。窓ガラスは割られ、白かった外壁はすっかり薄汚れている。わざわざ中に入って、絶望にまみれた夜を思い起こそうとは思わなかった。

 家を無心で通りすぎ、毎日のように通っていた場所だけを目指す。


 そこに変わらずあり続けている場所は、僕を疎外しないで受け入れてくれるような気がした。白いレジャーシートは所々破れ、濡れた土にまみれてはいるが。それも構わずに、リュックサックを足元に下ろすとそこに仰向けに寝そべる。

 瞼を閉じると、あの弾けた笑いを浮かべてアイスキャンデーを齧る少女が、風景として傍らに存在しているように感じられた。

 ――もう疲れたんだ?

 聞こえない声で、僕に優しく語りかける少女。

 うん。

 ――そっかー。

 少女はそれきり黙ってアイスキャンデーを齧り、こちらを見つめるだけだった。

 この子は何も知らないまま。それで良かった。僕の中の少女は今脳裏にいる少女のまま、僕を嘲笑うことも苦しめることもしない。妻は少女をここに置き忘れてきたから、あんな態度に。

 ああ、思考がまとまらない。自分でもわけがわからない。そろそろ君ともさようなら。始めから終わりまで絶望ばかりの人生だと思っていたけど、最期に会えてよかった。

 穏やかな気持ちでリュックサックから包丁を取り出し、それを思い切り腹に突き立てる。ドス、という鈍い音や痛みと共に、意識は徐々に流れていった。


 全身を綺麗な赤に染め、安らかに目を閉ざした彼に駆け寄る。私を嘲笑うかのように流れ続ける血液を、彼が使っていたタオルで抑える。白かったそれに、赤がじんわりと広がっていく。

 バクバクとうるさく暴れ出す心臓を抑え、努めて冷静に救急車を呼ぶ。電波が悪いせいか絶え間なく発せられるノイズが、苛立ちを募らせる。気持ちを抑え、とにかく急ぐように伝えると携帯電話は、承りました、と無機質な声だけを残す。

 玄関の扉が開く微かな音を耳にした私は急いでコートを羽織り、後を追って家を出た。ただの好奇心で。

 そしたらこれだ。まさかいきなり包丁を取り出すだなんて思わなかったから、驚きで目を見開くことしかできず、彼を止めることはできなかった。

「ねえ……逃がさないから。絶対に死なせないから。これからも私の玩具として、そして夫として生きなきゃダメだよ。君のことが本当に大好きだから。でも私の気持ちは伝わってないよね。だって面と向かって伝えることはできなかったから。ごめん、素直になれないみたいなんだ。……あはは、私もあの母親とおんなじだ。うわー、嫌だなー。でも私はアイツとは違う。私の気持ちはホンモノだもん」

 彼の手は寒さのせいで紫色になり、冷たくなっているが、心臓からは鼓動を感じることができた。

「ひひひひひひひ、逃がさない逃がさないよ! 君は死なない!」

 凍りついた傷口は既に血が止まり、森の入口からは大勢の足音が近づいていた。

 これにて完結です。ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。

 気がつかれた方がいるかもしれませんが、本作は「お人形は終わり」のオマケのような扱いなので短いです。

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