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逃走

 あれからの母は不気味なほどいつも通りで、いつも通りに僕と“ 遊び”をする。本当に何かあったのかと疑いたくなるほどに。

 僕は例の場所に毎日通っているが、少女はいつになっても現れなかった。本当に何もなかったのかと疑いたくなるほどに。

 不思議に思った僕は、一度だけ母に聞いてみたことがある。少女はどうなったのか。生きているのか、死んでいるのか。 

 僕に問われた母は表情一つ変えず、柔和に微笑んだまま。

「雄哉はなにをいっているのかしら?」

 それでも、瞳の奥に宿る不気味な光を隠しきれていなかった。それの正体なんてわからないが、僕にはそれが良いものだとはとても思えない。だからそれ以上は、何も訊ねなかった。

 来ないことがわかっていても毎日、秘密の場所へと通い続けた。僕がいない時に、彼女が待ちぼうけをくらうなんてことがないように。例えどんなに土砂降りの日でも。例え暴力の傷がどんなに疼いている日でも。

 夜になると自室にこもり、電気もつけないで静かに涙を流す僕を見ても、母は何も言わなかった。それどころか、無理矢理リビングに引きずり出して“遊び”を楽しむ。「どうしたの?」の一言も「具合が悪いなら寝たほうがいいわよ」とも言わずに、壊れゆく僕をさらに壊していくのだ。それは僕がなぜ悲しんでいるのか、理由を知っているからかもしれない。

「雄哉。ママと遊びましょう」

 パジャマの襟首を掴み、僕を荒々しく引きずる母はもう僕を見ていないことに気がついた。僕を通して、憎い少女をいたぶっているだけ。不意に“愛と憎しみは紙一重”という言葉が脳裏をよぎる。

「雄哉雄哉雄哉! 大好きよ! ……よくも雄哉をっ! 死んでしまいなさい!」

 頭の中を重い鉄の塊が滑り込み、瞼の裏には赤い稲妻が浮かんだ。


 少女がいなくなった今、僕はいつまでも救われずに惰性で生きるしかないのであろう。いや、既に生きた状態にはない。ただ“死んでいない”だけ。

 血が止まらない左足を引きずり部屋に戻った僕は、部屋が汚れるのも構わずにベッドで仰向けに横たわる。そして机の引き出しから、母に内緒で購入した安物のカッターナイフを取り出すと、カチカチと弄ぶ。手の中にあるそれの頼りない感触だけが、自身の終わることのない思考を止めてくれると信じて。

 枕元に置かれたクマやウサギといった沢山のぬいぐるみ達が、僕を静かに見守っている。彼らは身勝手な母に連れられてきたモノだから、今までは煩わしくてたまらなかった。でも今は感謝している。無論母にではなく、このぬいぐるみ達に。

“雄哉君、よく頑張ったね”

“もう楽になりなよ”

“ボクたちが楽しい世界に連れていってあげるね”

 薄い皮膚を通して頸動脈に感じられるひんやりとした細い刃が、しくしくと泣きながら優しく微笑む。時々、風にそよいで膨らむカーテンをちらりと見やる。

 部屋のドアが開いたのには気づかなかった。また、母が僕を呼ぶ声も耳に入らなかった。

 不意に右手首の自由がきかなくなり、現実に回帰させられる。

「……ママ」

 切れて血がにじんだ唇から漏れ出る音は、意味すら持たずに空気中をただよう。いつの間に僕に馬乗りになっていた母は呪うように、祈るように唱える。

「雄哉? それはなにかしら。どうして、どうしてそんなモノを持っているのかしら。どうしてなのよ? ママを置いていかないでちょうだい。悲しませないでちょうだい。お願いだからパパみたいに死なないでちょうだい! いかないで……! いくなあああああああああああ!!」

 絶望を断ち切ってくれるはずだった道具は弾き飛ばされ、僕の右腕は空を掴む。

 肩で息をしている母が、落ち着いて話をしようとしているのがわかる。

「あんなものを持っていたら危ないわよ。あれはママが捨てておくわ」

 ああ、後は生命維持装置の電源を切りさえすれば終わりなのに。

「そんなに落ち込むことがあったのね……」

 ひやりとした冷たい手で優しく僕の頭を撫でる母は、慈悲に満ち溢れた聖母マリア。

「嫌なことは忘れて、もう一度ママと遊びましょうね。雄哉にとってもそれが一番でしょう」

 一瞬だけ垣間見える慈悲を信じた僕が馬鹿だった。それはアイアイメイデンのように優しく僕を抱きかかえて絡めとり、ゆっくりといたぶって逃がさない。


 全身の痛みが疼きだして眠れない夜中。母が買ってきた、ポップなデザインをした壁掛け時計に目を向ける。目が慣れてくると、すでに丑三つ時を過ぎているのがわかった。

「……ゃ………」

「うる………ぁ…」

 母がテレビドラマでも見ているのだろうか。薄く開いたドア越しから、言い争うような会話がかすかに漏れ聞こえている。ドアを閉めたいが、面倒だし全身が痛いからそのまま動く気にはならなかった。

 しかしそれはすぐに、無意識の希望的観測だと気がつく。

「あああああああああああ!」

「きゃははははははは!」

 狂ったように甲高い悲鳴をあげる人物は、明らかに母。それを掻き消すように笑い声をあげるのは。

 予想があたらないことだけを祈りながら、傷だらけの身体に鞭を打つ。玄関の様子を見にいくために身体を起こし、部屋のドアを静かに開けた。

 階段の上から覗き見たそれはより鮮明で、残酷で、現実味を帯びていた。いや、現実でしかなかった。

 腹を抑えてうずくまる母。そこを中心にじわじわと広がっていく鮮血。行方しれずだった少女は目を剥いてただ狂喜しながら、何度も何度も母の頭に大きな刃物を振り下ろす。血や脳味噌と思われるものや体液が、自分に降りかかるのもまるで気にしていない様子で。

「くひひ。あははははは……死んじゃえ、死んじゃえ! それとももう死んだ? ふふ、ただそうやってやり過ごそうとしてるだけなんでしょお?! バレてるんだからおとなしく起き上がればいいよ! きゃははははははは! この! この! キチガイの嘘つきが!」

 ざく。ざく。ざく。びちゃ。ざく。

 逃げろ。逃げろ逃げろ逃げろ。

 これは虫の知らせとでもいうのだろうか。頭の中から聞こえる声は、それ以外の思考をすることを阻んだ。

 慌てて部屋に戻ると窓を開け、そこから身を乗りだしてコンクリートの地面を見下ろす。横殴りの強い風が、僕の髪の毛を煽る。とにかく逃げないと。少しくらい怪我をしてもいいから逃げないと。

「なんで逃げるのかなー」

 部屋の入り口に立ち止まる少女は、唇を嗜虐的に歪めている。手には鮮血が滴る包丁が。あれで僕を、人殺しが、人殺し。気狂いが僕の部屋に。絶対におかしい逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと逃げないと

「へえー、恩人から逃げるんだ。私をバケモノでも見るような目で見るんだ。君もキチガイの母親に汚染されたんだね、おめでと」

 逃げないと逃げないとああああああああああああああああああああ、ああ、あ、あ……

「はい、確保ー。なにをそんなに慌てる必要があるんだろね? なに? 飛び降り自殺でもする気だった? ママがいない世の中なんて生きてけないよー、助けてママー、って?」

 僕の右腕をがっちりと掴む白い腕が、もうどこにも逃げ場がないことをはっきりと語っていた。震える唇は、言葉を音にするのもやっとだった。

「こ、の……人殺し」

「誰に向かって口訊いてるか、わかってる? あの犯罪者は死ななきゃダメだったんだよ。私がいなかったら君、完全に死んでた――殺されてたんじゃないかなあ。心が。下手すれば身体も。所詮君は私がいないと生きてけないってことだよね。恩着せがましいとかいわないでよね。それともさ、私がアイツを殺さなくても君がいつか殺すつもりだったの?」

 そんなはずがない。僕はただ、変わらない日々があればそれで満足だから。でもこいつだけは許さない。日々を修復不可能なまでに壊したから。どうせこいつは現状を悪くすることしかできないだろうから。ならばこいつを殺せば、これ以上は変わらない。変えさせない。あはははは、いつか殺す。

 溢れ出る殺意を抑えるように、何度も深呼吸をして心を落ち着かせる。……よし。とりあえず殺意は消えた。

「殺すか殺さないかなんてわからない。君が殺したという結果しか残されてないから。母は死んだ。これからは僕一人で生きていける」

「あはは、わかってないね。その死にかけた心でこれから先、どうやって人並みに満足な人生送ろうっていうのさ。それに知ってる? 人生ってさ、一つの障害を乗り越えたと思ったら、また次の壁が現れるんだよ。絶望しかないの。そういうモノ。君は産まれた時から幸せになれない運命なんだよ。ま、恨むなら勝手に産んだ母親を恨めばいい」

 これ以上は壊れないと思っていたのに、まだ壊されていくのか。それだけの人生に生きる意味なんて。ああ、何も考えたくない。考えられない。

「でも私だけが君を守ってあげられる。君は私といることで、あらゆる恐怖を忘れることができる」

 彼女の言葉は、僕の心を打ち砕こうとする。僕の存在価値? 僕を玩具として必要としていた母が死んだ以上、そんなちっぽけなものすらも潰えたのだ。いてもいなくても何も変わらない。これから先、生きるとしても少女の荷物になるだけ。僕が財産になんてなれやしない。

「だから君は私に依存して生きるだけでいい」

 それでも何か言わなくては。状況を否定する言葉を。僕は一人で生きる、お前に頼らないと。

 ……あれ、声が出ない。

 少女はケタケタと大声をあげて嗤う。最初からこうなることを知っていたかのように。自分の思惑通りに事が進んだことを喜ぶ犯罪者のように。

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