闘争
無数の木々が生い茂る森。その入り口には、こぢんまりとした少年の家が風景に溶けこんでいる。
森の奥へ奥へと進んでいくと次第に暗くなっていき、いつしか深海のように全てを包み込むような闇へと変わる。そこでは木の枝が密に絡み合っていて、空を拝むことはできない。当然ながら不気味なその場所へ誰も近寄らなかったが、さらに奥へ進んでいくと突然、木々もまばらな広い草原があらわれる。
目印に薄汚れた、大きな白いレジャーシートを敷いただけの粗末なスペースが、少女と少年だけの秘密の場所だった。
「貴女、私が思った通りの場所にいるわね」
秘密の領域に足を踏み入れた女は、無感情な声をだす。
「雄哉と私の携帯電話にはGPS機能がついているから、居場所がすぐにわかるのよ。いつもここを指すから怪しいとは思っていたわ」
棒つきのアイスキャンデーを口に咥え、レジャーシートに体育座りをしている綺麗な顔の少女。彼女はいたずらっ子のように小さく舌を出すと、小さく頭を掻く。
「……ありゃ、見つかっちゃったか。それにしてもちょいとやり方が汚いかもね。母親の言いつけを守る従順な息子さんで良かったねー。それともさ、あの子はGPS機能についてちゃーんと知ってるわけー?」
それに応じるのは、少女のことを親の敵でも見るような目で睨みつけ、腕を組んで見下ろす女。
「貴女がそれを知る義務なんてないわ」
「あっそ。それならそうかもねー」
「にやにやとするんじゃありません」
「はあ? 私はあなたがおかしいって思ってるから笑うだけ。あー、不快に思うなら勝手に不機嫌になってりゃいいよ。私は別にあなたがどう思ってようがどーでもいいし。くくくっ」
少女のそれは快い笑い、明るく木々の隙間を震わす笑いではなかった。鈍く森じゅうに響き渡り、また返ってきて二人の間に重苦しく立ちこめる。
「貴女は全く反省していないのね」
「ん? さっきからなにキレてんのさ?」
「とぼけるのは嫌いよ。雄哉のことを散々誑かしておいて、よくも平気な顔をしていられるわね」
「それは語弊が大ありだねー。私はあの子を助けたいだけ」
気怠げにアイスキャンディーを舐めながら、少女は「うわー、早くしないと溶けるー」とつぶやく。
それを見た女は思いきり眉をしかめ、少女の手からそれをはたき落とした。レジャーシートにぶつかり、無残に崩れるアイスキャンディー。少女は、おもちゃを取り上げられた子供のような目で女を上目遣いで見つめる。ささやかな非難が込められた目で。
「あーあ、食べ物を粗末にしたらいけないんだー」
「私は真剣な話をしているの」
「えー?」
緊張感の欠片もない少女の態度は、女に宿る憎しみを増幅させたのだろう。口調こそ穏やかなものの、そこからは確かな怒りを感じることができる。
「もう金輪際、雄哉に近寄らないでちょうだい」
「それはあなたがあの子をだーい好きだから?」
「当然よ」
女の答えを聞いた少女は、ハッ、と馬鹿にしたように鼻で嗤う。
「反動形成、て知ってる?」
観察眼が鋭い少女には、女の目が動揺によって揺れ動くのが手にとるようにわかった。
「た、確かにそんな言葉はあるわよ。でもそれは、子供を憎む親が逆に子供をかわいがる。そんな話でしょう? 私は雄哉のことを誰よりも愛している自信があるの」
「はい、ダウトー。顔、真っ青だよ? 全っ然ごまかしきれてない」
少女は、花畑に佇む子供のようなフワフワとした笑顔を浮かべる。
「黙りなさい! 私には私の愛情表現というものがあります!」
「愛情? それはあなたが勝手に押しつけてるだけでしょー? なんであの子がここに通ってくるかってさ、あなたの愛情とやらが変な形でしか伝わってないからに決まってんじゃん。なんで気づかないかなー、変なのー」
「ならば正しく伝わるまで、いつまでもぶつけ続けるまでよ。貴女、どういうつもりなの? 鬼の首をとったように……私を苦しめるのが、そんなに楽しいのかしら?」
「ねー、もうとっくに気づいてるんでしょ?」
「なにをいっているの?」
「自分を正当化するために、愛を免罪符にしていることだよ。綺麗な感情を抱いていれば、なにをしても許される。うわー、それって醜ーい! そうやって自分の罪をなかったことにしようとしたんでしょ? しかもその“愛情”とやらも嘘の感情なんでしょ? ほんっとタチ悪いよねー」
そこで少女は腕を組み、探りをいれるかのように女の顔色を改めて窺う。
「黙り、なさい! わ、わた、私は」
「うるさいって、言い訳しなくていいから。あなたの気持ちなんてとっくにわかってるし。知ってる? あの子はあなたのことが大嫌いだってさ。まあムリもないよねー。虐待だもん。ぎゃ、く、た、い! 立派な犯罪じゃん。この犯罪者が」
もちろん雄哉はこんなことを言っていない。雄哉がなにを考えていようが、彼はその感情を少女に隠している。だから少女が彼の気を知る由がない。少女は相手の嘘を追及しながら、自らも嘘をついているのだ。
女はやり場のない怒りのせいか、あるいは糾弾される恐怖のせいか、小刻みに肩を震わせる。
「……やめなさい」
「やめたげないよー」
少女は女に顔を近づけ、女の頬を両手でがっちりと挟む。それは傍から見たらふざけているように見える光景。しかし二人とも憎悪を露わにして睨みあっている。
「なんですか。この手を離しなさい」
「あの子の意見をきいてあげたことがある? あの子の気持ちを考えたことがある? 自分を犠牲にして、あの子になにかしてあげたことがある?」
「なん、で……違います、私は」
「なんであの子を壊すの? なんで自分の意見を押しつけるの? なんであの子を無視するの? なんで嘘つくの? なんで助けてあげないの?」
「たす、け……? それは、どういう意味で……」
「ホントは知ってるくせに。やっぱ助けたら自分が損をするから助けないんだ。ストレス解消の対象がいなくなるから、救うことができないんだ」
「やめな、さい、やめなさい! やめなさい! やめろやめなさいやめろ!!」
女は少女を思いきり押し返そうとする。しかし少女はその華奢な見た目とは裏腹に力が強く、少し後ろによろめいただけだった。
「これ以上は聞きたくない? 自分の罪から目を背けたい? あはは、やっぱあなたはあの子のことが嫌いなんだ。いいよ、あの子には内緒にしといてあげる」
少女が女を思いきり突き飛ばすと、女は湿った土の上で尻餅をつく。
「きゃっ……! なにをするの?! 汚れてしまうでしょう!」
「ははは、これでおしまいだって思っちゃダメだよ。あなたの罪が見逃されることなんて、私が許してやんない。どこまでも追及してやる! ……ああ、そっか。あなたも帰んないとね。愛しの息子が待つ家に! 仕事サボってこんなことしてましたー、なんて恥ずかしくってとてもいえたもんじゃないしねー。ぷっ…………くくくくくくく!」
女は立ち上がりもせずに、恐怖と驚きによって見開かれた瞳に少女を映すだけ。
「なっ、なによ貴女は。口が過ぎるとただじゃ済ましませんよ! 命を落とすかもしれませんよ? それでも構わないのっ?!」
「ああ? 自分が悪いんでしょーが。さっさと認めなって! 他人に指摘されたら脅迫ぅ? あんま笑わせんじゃねーぞ、クソが。それとも確かな愛情の証明でもしてくれるの? はははっ、ムリだよね! ムリムリ! そーいうのは小さな行いの中で積み上げられていくんだからさー!」
森の中は急速に光を失い、木や茂みも色を吸われ、なにもかもが古ぼけた写真のような、褪せたセピア色に変わっていった。