無知の知
今日もまた例外なく日は登り、そして沈んでいく。その常識が覆されることなんてあるはずがないし、だからといって覆そうとは思わない。
いつものようにソファに寝転んで空を眺めていると、気がつくと空が暗くなっていることに気がついた。カーテンを閉め、電気をつけて時計を見ると、すでに母が帰ってきているはずの時間を大幅に過ぎている。
夕飯が決まらずに買い物が長引いているのだろう、と冴えない頭で判断した僕は電気を消すと、もう一度ソファに寝転がった。
玄関の扉が開け放たれる音が耳に入るとともに、ぼんやりしていた頭は冴えた。僕は機械的に立ち上がると玄関に向かい、機械的に言葉を紡ぐ。
「おかえりなさい、ママ!」
いつものように小さな買い物袋を左手に提げた母は、いつものように微笑みを浮かべて僕を見つめる。毎日繰り返されている、いつもの光景。
それでもどこかがおかしい。拭い去ることができない違和感。
その顔はいつもと何かが違っている。一気に何十年も老けこんだように見える母の顔をまじまじと見つめ、疑問を口にする。
「ママ……? どうした――」
「ただいま、雄哉」
母は僕の言葉を最後まで聞かず、上辺だけであろう笑顔を浮かべたままで玄関の鍵を閉める。
母の顔や腕に血がべっとりとついている。誰の血? なぜ? 知るか。昨日少女と小指を交えたからだとか、そんな馬鹿なことはありえない。
あれ。右手に持っているものは、まだ乾いていない血のついた万能ナイフだとか、そんな物騒な物のわけはないよね。確かに母はいつも、仕事中に何かがあった時に便利だからといって持ち歩いてるけど。あれ。あれ。…………あ。
「雄哉、ごめんなさい。ママは人殺しです」
母は笑ってなくて、涙を流していて。その涙さえ拭わないでただ静かに泣いている。初めて母の泣き顔を見たが、驚いたり慌てたりはしなかった。ただ、何かを考える時間が足りないだけかもしれないが。
「ママは人殺しです」
「冗談だよね? そうやってボクを困らせようとしてるんだよね?」
「……色白でお人形みたいに綺麗な子が家の前に立ってたのよ」
僕の質問に答えなかった母は、静かに涙を流しながらポツリともらす。
「その子、ママになんていったと思う? 雄哉を普通に愛して、なんていうのよ。普通? 私のどこが普通じゃないっていうのよ?! ママのことをまるで汚いゴミでも見るかのような目つきで見て!」
語気を荒げる母はいらただしげに袋を床に叩きつけ、買ってきた野菜やお菓子といったものを散乱させる。
小指を交えたあの少女は行動に移してしまったのだ。確かに現状を変えてしまった。悪い方向に。
下を向いて肩で息をしている母は顔を上げ、僕の目を見つめる。僕を見る目だけがいつもと同じように穏やかなのが恐い。
「ママ。だいじょう――」
「雄哉。あの子、なにかいってなかったかしら?」
「え?」
「いったのでしょう?」
母は少女を知っていて、僕との交友関係も知っている。きっとそれは、僕が最も実現してほしくないと思っている形で。
「ボク、知らないもん! そんな女の子なんて!」
「そうよ、女の子よ」
しまった、と思った時には既に後の祭りだった。次第に険しくなっていく母の鋭い目つきは、返り血との調和を生みだす。それは第二の殺人が起こるかもしれないという恐怖を駆り立てた。
「ねえ雄哉? あの子はママの大切な雄哉になにを吹き込んだのかしら? あの愛らしい唇でなにを囁いたのかしらね?」
「し、知らないよ。ボクは何もいわれてないよ」
「秘密の場所」
「えっ……?」
「今日は行ってきたのかしら」
険しい表情から一変して、母は優雅に口元に手を添えてクスクスと笑う。いつもと同じように。
それにしてもなぜ知っているのだろうか。あの場所がそう簡単に知られるとは到底思えないのだが。
「行ってないよ!」
「そう」
母は納得しているのかしていないのか、なおもクスクスと笑い続ける。
昨日は行っていないのは事実だ。別に約束をしているわけではないし、何日も行かない日なんてざらにある。要するに不定期なのだが、僕と少女がすれちがったり、会えないなんてことは一度も無かった。僕があの場所へ行くと、不思議なことに少女はいつでも先にいる。まるであそこが自分の家だとでもいわんばかりに。
「どうして行かなかったか、ママは知っているわ」
僕がそんな気分ではなかったから。
「あの子に協力させられたのでしょう? 本当は彼女を止めたかったけど、脅されていて行けなかったのでしょう?」
「そんなはずないもん」
「隠さなくてもいいのよ。ママは雄哉のことを恨んだりしないから。だって悪いのは全部あの子じゃない。何よりも、ママは雄哉を愛してるのよ」
うるさい。僕の気持ちすら知らないで何が愛だ。
「だから本当のことをいってちょうだい、雄哉」
うるさいうるさいうるさい。
「本当に知らないよ」
「そう」
そんなことよりも、どうしてあの場所のことを知っているのか。どんな理由で、どんな手段を使って僕達の場所を暴いたのか。
「雄哉は本当になにも知らないのね?」
首を何度も大きく縦にふると、母はクスクスと笑うのをやめていつもの微笑みを浮かべる。
「それなら、今日のことはなかったことにしておきましょう。秘密にしておけば誰も損をしないし、日常を壊さなくても済むわ。それにもう夜だから、誰も通らなかったわよ。……さ、夜ご飯にしましょう。今日は雄哉が大好きなグラタンよ」
疑問を問うことも許されず、話は一方的に始まり、終わった。
母は床に散らばる物を拾いもせず、風呂場へと向かっていく。一方の僕は何も言うこともできず、空っぽの心をぶら下げたままその場に立ち尽くすしかなかった。
翌朝、母よりも早く起きて家の前に出てみたが少女の死体はおろか、争った証拠――血痕なども全くない。夜中に母が洗い流したのか、それとも出来事自体が母の作り話だったのか。
母は、自分が犯した過ちをなかったことにするつもりらしい。僕に罪を吐き出す必要性なんて、そこには見出せなかった。僕はそれをわざわざ必要なものにはしないつもりだから、僕も事件を忘れようとした。
これで現状はなにも変わらない。不都合なんてないはずだ。