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妥協

 僕以外には誰一人いない家。この空間だけ時間が止まっているのではないか、と錯覚させられるほどの静けさ。

 母は昼から夕方まで遠く離れたスーパーまで、毎日パートに出掛けている。父は物心ついた頃には既に家にいなかった。母いわく、会社の帰りに交通事故で亡くなったとのことだ。だから僕は、父の顔を写真でしか見たことがない。写真の父はいつでも楽しそうに、無邪気な子供みたいに笑っていた。

 終業式を終え学校から帰ってきた僕は、飾り気のない黒い肩掛けカバンを床に放り投げ、校則通りに着た制服を脱ぐこともせずにソファに横たわる。

 明日からは夏休みが始まるが、普通の学生みたいに心が軽くなることは無い。別にそれは宿題が面倒だからとか暇だからとか、ありきたりな理由ではない。だからといってそこまで深刻な理由でもないが。ただ日常的に、なんとなく消えない不安に駆られているだけ。

 切り取られた空を天窓越しにぼんやりと見上げると、水彩絵具を混ぜたかのような綺麗な夕焼けが拡散して、家の中をほんのりと赤く染めあげていた。

 この家庭と外の世界の構造はとてもよく似ていると思う。表舞台にはのどかな空気が流れ、皆が笑顔で芝居をする。例えなにかを知っていたとしても、それを感じさせない素振りで演じ続けるのだ。

 一方で第三者からは見えない裏舞台では、のどかな日常なんて微塵も感じさせないことが行われているのだ。それは買収であったり、陰湿ないじめであったり。それもまた、ある意味では日常なのかもしれないが。

 そんなくだらないことを考えているうちに母が玄関のドアを開け、いつものように猫なで声を出す。

「ただいま、雄哉(ゆうや)。あらあら、疲れてるのね。今日はあなたが大好きな銀杏堂のカステラを買ってきたわよ。あとでママと一緒に食べましょうね」

 母はどういうわけか、僕が銀杏堂のカステラが一番の好物だと思い込んでいる。嫌いだといえば嘘になるが、別に特別好きだというわけではない。むしろどちらかというとショートケーキが好きだったりする。しかし僕は従順な息子を演じ続けるから、それについて訂正するつもりは無い。母が好きなのは“聞き分けの良い息子”であり、“僕”ではないのだから。

「やったー! ボク、ママのことだぁいすき!」

 自分でも吐き気がする口調。母と話す時には、幼い時からこれを強いられている。この先大人になってもそれは変わらないのだろうと考えて、憂鬱な気分になる。

 僕が平均的な男性のように声変わりをしていたら、こんな喋り方をしなくても良かったのかもしれない。しかし生憎僕には変声期とやらが存在しないみたいだ。声も高いし、背が低いほうの女子と肩を並べるほど小柄だから、学校でもよくからかわれる。

「もちろんママもよ。……今日もママと遊びましょうね」

 心とは裏腹に、母が微笑みを浮かべて静かにいった一言に対して、大袈裟に喜んでみせる僕。“ママと遊ぶ”こと。僕にとってのそれは、ただの恐怖でしかなかった。しかし拒絶したら母から嫌われ、普段の穏やかな生活すらも壊されてしまうかもしれない。自分としても面倒ごとは避けたかった。

 母はこちらに背中を向けると台所へと向かう。買い物袋の中身を冷蔵庫や戸棚にしまったり、食材を包丁で刻んだりして夕食の準備を始める。

「今日は雄哉の好きなハンバーグよ」

「ホント? ママ大好き!」

 ハンバーグも特別好きなわけではない。僕が本当に好きな物を知ろうとしない姿勢にはつくづく呆れる。もはや自分自身ですら好物なんてわからないから、今更なにも言えないが。


 母が僕の名前を何度も呼んでいる。何度も何度も、狂おしく。

「雄哉大好きよっ! 雄哉雄哉雄哉雄哉雄哉」

 幼い頃から続いてきた、母の愛情表現。僕の狭い世界ではこれが当たり前だから、その行為の理由すら疑問に思ってはいけないのだと思う。学校の数少ない友人も皆が親に愛されているけど、こんなことをされている人なんていないだなんてそんな馬鹿なことは。

 僕は声も出さず、いつものように母にされるがままになっていた。拳や踵が腹や胸など全身に容赦なく次々とめり込み、僕の身体に新しい痣をいくつも残していく。

 痛いとはいえ、我慢するしかないのだ。これが母なりの愛情表現なのだから。いや、痛くないよ。痛くない痛くない痛くない痛くない痛くなんか。

 

 全てが終わった時、母はいつも僕の頭をなでてくれる。

「雄哉は強い子ね。ママの愛情を全部受け止めてくれるなんて、本当に嬉しいわ。ママは世界一幸せね。生まれてきてくれてありがとう、雄哉」

 耳元で囁かれる言葉の意味を理解してしまったのは、もうずいぶんと前のことだ。だから僕はどんなに痛くても苦しくても、意識を飛ばしてはいけない。自身が置かれている状況を受け入れなくてはならない。

 僕はただ“愛情”を一身に受けていればいい。

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