回帰前
人が死ぬときには、最後まで音は聞こえるそうだ。
数日前から、カビたパンを齧ったり、ほぼ水の冷たい具なしのスープを口に運ぶことを止めた。温くて腐った水を飲むことも止めた。起き上がることも、嘆くことも止めた。
……もう、生きていくことを諦めたから。
骨と皮ばかりの体。艶のあった髪は痛み、自慢だった澄んだ声は喉の渇きで掠れてしまう。
狭くて暗い部屋に押し込められ、世話をするメイドもいない。湯あみもできず、満足な着替えもない。大切にしていた髪飾りも指輪も、手紙を書いていたペンも、大好きだった本も栞も……ここには、なにもない。
耳に届くのは賑やかな宴の音。奏でられる楽器、ダンスを踊るリズミカルな足音。
そして……愛した夫の笑い声と、その夫に侍る子爵令嬢の甘ったるい言葉の数々。
つーと、涙が一筋流れた。
もう……枯れたと思っていた涙が。
ふうっと息を吐く。この息を、あと数度繰り返したら、私は永遠の眠りにつく。
きっと、私の魂は地の底へ、地獄へと堕ちていくだろう。
あんなにも愛してくれた家族を忘れ、初恋へと溺れた愚かな私なんて、罪深く天に昇れるはずがないもの。
閉じた瞼の裏に、家族の顔が次々と浮かぶ。任務の途中に事故で亡くなった父や、王子を庇って死んだ兄。私のことを案じつつ、自死を選んだ母。
ああ……あんなにも幸せだったのに。
幼いころの初恋が、私を狂わせた。
死にゆく私を案じることも見送ることもなく、爛れた愛と酒に狂乱する夫。この国の王太子である夫。私の初恋の君。その黄金に輝く髪と光溢れる金色の瞳……金色の……瞳?
初めて出会ったのは王城の庭。白い花が咲き、爽やかな風が吹いたあの日……木陰で交わした会話。
私の歌声に耳を傾け、怖くて震えた私の手を握ってくれた少年。
キラキラと輝く黄金の貴方……でも、夫の瞳は金色ではない。いいえ、光の加減では金色にも見える……?
「はあっ……はあっ……」
待って、待って。まだ、死ねない。私が思っていた初恋の君は、あの人ではなかった? 幼いころから時間を経て、変わってしまったと悲しかったけれども、そもそも別人だった?
ああ……待って、まだ死ねない。もし、夫が初恋の君でなかったなら、私は……私は……家族まで犠牲にした私のこの結婚は……。
「ああっ……」
天へと伸ばした右手が霞んで見えない。喉が塞がる苦しさと、胸の鼓動が止まる激痛で、私の意識は……最後まで夫と愛人の笑い声を聞きながら、途絶えた。




