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フェアリーリング  作者: 坂井美春
第十章 ポートブリッジ計画
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ポートブリッジ計画実施地モン・ファロン山頂

 国際連合は加盟国すべてに5つの提言を提示していたものの、現時点でルシファーの感染拡大に有効な手段がないと判断されていたため、「その一」から「その四」では、その政策によって、ルシファーの侵入を許し、壊滅的な事態に陥ることは容易に想像できていた。このため、もっとも重視する方針は最初から決まっていた。敵性来攻生物対策理事会は秘密裏に「その五」である「感染がおよんでいない地域一帯を完全に隔離して安全地帯を確保する」の実現に全精力を傾けていた。

 世界から選ばれたいくつかの候補地を隔離し、その中で人類は立て篭もる計画である。その実行計画のひとつであるフランス東南部を対象としたポートブリッジ計画が正式に発動された。ポートブリッジの名前の由来はトゥーロン港とイエール空港の2つの港を橋渡しするエリアだからである。これは敵性来攻生物対策理事会によって極秘に決定された地域であるがゆえに、具体的な都市名がわからないように配慮したためのコードネームともいうべきものである。拠点の存在が秘密にされるのは、計画を知った民衆が押し寄せる事態になった場合、その中にルシファー感染者が含まれていては、とりかえしのつかない事態になるからである。

 ポートブリッジ計画に従い、トゥーロンとイエール一帯は、世界とのつながりを閉じることとなった。フランス国家の中枢や各部門の専門家を秘密裏に受け入れていたが、その数は非常に少なく、トゥーロンの人口16.45万人、イエールの人口2.879万人と、決して多いとは言えない人々を生き延びさせる計画である。

 セリア・ケイ士官候補生はポートブリッジ計画の参加者名簿に載ることとなり、このままトゥーロンに滞在することとなった。しかしながら、彼女はこの場所さえも、いずれルシファーの洗礼を受けるに違いないと思っていて、特段に安心などしていなかった。

 彼女はトゥーロン市内の北側にあるモン・ファロンという小さな山の山頂に向かっていた。彼女は自分が成さなければならないことを果たせるように、士官候補生の道を歩み始め、フランス共和国海軍の真新しい軍服を着ていた。しかしながら、艦船のほとんどは来るべき時まで温存されることになり、彼女は稼働する軍艦に乗艦することができなかった。来るべき時とは、正直なところ、いつのことを指しているのかあいまいであり、彼女の前途は多難であった。

 オランダ人の彼女がフランス共和国海軍の士官候補生を目指すことは異例のことなのかもしれないが、ポートブリッジ計画の発動したこのご時世ゆえに、何もかも異例づくしとなった。海軍は彼女の容姿をただ単に志願兵の募集宣伝に利用したかっただけなのかもしれなかった。もちろん、そんなことは彼女も気づいていた。

 耳にするニュースといえば、世界情勢のさらなる悪化ばかりであり、ドラゴンとの戦闘域はついに首都パリにまで到着した。ルシファー感染地域も、ほぼ同じ地域まで拡大していることであろう。

 モン・ファロン山頂へ向かうロープウェイからは、トゥーロン湾に接する街並みや軍港を臨むことができる。軍港に停泊している地中海艦隊の多くの艦船は、ドラゴンから艦船であることをわかりにくくするためにダズル迷彩に塗装され、カモフラージュネットで完全に覆う工事が進んでいるのが見て取れた。それらの中でも広大な最上甲板と艦首両舷側の大きなフレアやステルス化された平面構成の艦橋など独特な姿の輸送艦〈おおすみ〉はすぐに判別ができた。輸送艦〈おおすみ〉はトゥーロン湾を出て、今まさに地中海に出ようとしているのが見えていた。無寄港連続23日間で日本国横須賀に向けて帰途の航海に出たのである。

 輸送艦〈おおすみ〉の自衛官たちとはせっかく親しくなれたのに別れるのは寂しかったが、避難生活から救ってくれたことに感謝し、無事に帰国できることを心から祈っていた。

 ケイ士官候補生はカレーの香りをゴンドラ内に漂わせている自分に気づき、ゴンドラの同乗者に申し訳なさそうにしながらも、カレーパンの入っている紙袋を大切に握りしめた。護衛艦では火を使えないために、石窯で焼き上げた自家製パンという訳にはいかなかったが、スチームオーブンを使って焼き上げ、とんかつソース、ウスターソース、ケチャップ、はちみつ、白みそなどのこだわりの素材をじっくり煮込んだカレーが詰まったパンである。輸送艦〈おおすみ〉の自衛官たちから、出港前に餞別として頂いていたのである。

 上空には、飛来してきた軍用機が着陸の順番待ちのため、上空で旋回しているのが見えた。イエール空港には、ポートブリッジ計画により空軍機が増援として次々と飛来してきていた。さらに陸軍も近くの教育部隊以外に、大部隊が合流してくることになっている。それは百年戦争にてオルレアンに入場するフランス軍の援軍を連想させた。いずれも戦力の温存を図るためである。

 ベームスター干拓地ミサイル爆発事故以来というもの空は晴れることがない厚い雲で覆われている。放射線のない核の冬のようであり、モン・ファロンの頂上から見る空も同じであった。世界中の空が同じ状況であり、その原因が全くわかっていないのである。GPSなどの人口衛星とも通信が途絶しており、ポートブリッジ計画によるトゥーロンとイエール一帯の隔離のように、まるで地球そのものが宇宙から完全に隔離されているかのような状況であった。

 ロープウェイが山頂に近づくと、山腹に運び込まれる重機や、掩体壕を造る工事が進められているのが目立っていた。対空火器を設置する工事も予定されており、モン・ファロンの要塞化が進んでいるのである。

 ロープウェイからは見えないが、山頂の動物園や教会などの施設は閉鎖され、代わりに世界中の通信を傍受するための円形アンテナ〈象の檻〉が建造されようとしていた。トゥーロンやイエールはまさに生き残るための戦争に向かっていた。

 ケイ士官候補生はロープウェイから降りると、そよ風のような優しい風が出迎えてくれた。髪がなびかせながら、道順がわからず首を傾け、道の先をそっと覗き見る表情が、不安のような、不機嫌のような、そしてなにかを楽しんでいるような、不思議な表情を見せていた。

 ケイ士官候補生が後ろから近づいてくる人に気づくと、振り返った。そこには、和田継矢曹長がいた。

「お揃いですね」

 ケイ士官候補生は儀礼的ではなく、本当に嬉しそうに言った。フランス共和国海軍と日本国海上自衛隊では、同じ海軍でも制服は違っているので、同じ海軍の制服という意味であろう。

「似合ってますよ」 

 和田継矢曹長は慣れないオランダ語で話した。服装だけでなく、髪を短くしたことにも気づき、両方の意味を含んでいた。和田継矢曹長の答えは儀礼的であり、本心ではないことは彼女にも気づいた。本心は軍に志願したことに反対なのであろう。

「聞きました。車両とともに残ったそうですね」

 派遣陸上自衛隊の自衛官がルーアンの囮作戦に参加していた情報がトゥーロンのフランス共和国地中海艦隊司令部にも届いていたのである。しかしながら、その後は再び行方不明になっていた。

 派遣陸上自衛隊の西欧における日本人保護の任務は、未だ完了していない。未だに多くの日本人が、西欧に取り残されている。すべての日本人を安全な場所へ避難させるまで任務は続いているのである。派遣陸上自衛隊の自衛官は任務を諦めていないはずである。必ず西欧のどこかで任務を続けているはずである。それゆえに、車両を引き渡す任務も終わっていないと考えているのである。

 輸送艦〈おおすみ〉は取り残されている日本人を日本国に帰す任務も遂行しなければならない。輸送艦〈おおすみ〉は輸送してきた車両をトゥーロンへ荷揚げし、モン・ファロンの山頂の軍事博物館に運び込み、派遣陸上自衛隊に引き渡すまでフランス地中海艦隊司令部に預かってもらうことにした。

 和田継矢曹長は行方不明の派遣陸上自衛隊の自衛官に連絡が取れることを信じて、車両を引き渡すまでトゥーロンに残ったのである。それは、ドラゴンとルシファーの二重苦のこの世界では、日本に二度と帰ることができなくなるかもしれない任務であった。

「はい。まだ任務は続いていますから」

 和田継矢曹長は、口には出さないが、本当は故郷の日本に帰りたがっている。その気持ちはケイ士官候補生にもわかっていた。故郷に帰りたい気持ちは彼女も同じだからである。

 ケイ士官候補生は紙袋からカレーパンを取り出すと和田継矢曹長に差し出した。残っていたひとつを自分も口にする。

「ルーアンに人探しにいくそうですね。随分と遠くに行くことになるわね」

 特段に仲がよいわけではなかったが、別れはやはり寂しいものである。

「私たちは、ここに来て正解だったのでしょうか?」

 どうやら、和田継矢曹長はポートブリッジ計画に疑問を感じているようである。

 ケイ士官候補生は答えなかった。ただ、いつまでも市内を見つめていた。彼女だって正しいのか、正しくなのか、分かるわけがないからである。その問いに答えられるには、きっと長い長い時間が必要に違いない。

 あたりは暗くなり始め、眼下のトゥーロン市街に明かりがひとつひとつ灯り始めると、まるで光の絨毯のように広がっていった。それはいつもの光景、いつもの日常が織り成す景観ではあったが、この地で人々が懸命に生きて来た証であり、そのなにものにも代え難い夜景は観光名物となっていた。

 しかし今日から変わるのである。トゥーロン市内はドラゴンから身を潜めるために、灯火管制が敷かれるのである。警報が鳴りわたると、市内では消灯や遮光が行われ始め、外から見えないように隠されると、次第に街の灯は輝きを失っていった。人々が懸命に生きて来た証は、なにものにも代え難い夜景とともに、過去の遺産になってしまった。

 トゥーロンやイエールに生活するほとんどの住民たちには、ルシファーの存在が隠されている。世界の現実に目を背けさえすれば、その脅威が目の前に迫るまでであるが、この閉鎖された街の中で、今までのいつもどうりの生活ができる。

 ケイ士官候補生に関しては、なにもかも忘れて生きるということに抵抗感があった。今までの逃避行によって、「自分」を持ってしまったのである。恋人でも作って、新しい家族を持てば、短い時間かもしれないが、幸せを手にすることができるかもしれない。しかし、「自分」を捨て、現実に目を背けることはできなかった。

「時間が戻せればいいのに」

 ケイ士官候補生は声を出さない独り言をつぶやいた。彼女は自然と涙が出て来た。とても悲しかった。世界はこんなにも脆く、壊れやすいものであったことに気づかされた。あたりまえの日常が、どれほど退屈であって、どれほど世間体が煩わしくても、それがどれほど貴重なものであったのか、今更ながら気づいたのかもしれない。

 彼女は自分が泣いていることを和田継矢曹長に見られたことに気づいた。ちょっと体裁が悪いと思ったのかもしれない。切ったばかりのショートヘアの髪を片方の耳にかけ、照れくさそうにしていた。髪の毛を耳にかけることで、普段見えていなかった耳を見せているのは、彼女の気持ちがくつろいでいることの証でもあった。

「ここに来て正解であったなんて、わかるわけはないわ。でも、決めたの。私は、もう泣かないって……。子どもみたいだと笑うかもしれないけど、本気なのよ。だから、その証として、この目の前のカサブランカの花に誓うわ」

 ケイ士官候補生は、モン・ファロンの頂上の片隅に咲いていたカサブランカを手で優雅に指し示した。そのまま彼女は、勝手に誓いを続けた。

 「わたくし、セリア・ケイ士官候補生は、平和な世界を取り戻すまで、どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、どんなに辛くても、助け合いの気持ちを忘れず、多くの命を救い続け、決して泣かないことを誓います」

「『辛くても』が、かぶってますよ」

 和田継矢曹長が突っ込みを入れる。

「そこ煩い。ちゃちゃいれないの」

 この場を和ませるために、和田継矢曹長がわざとふざけて見せたことは彼女にも分かっていた。セリア・ケイ士官候補生に笑顔が戻り、なんとなく吹っ切れたような気がした。彼女は気づかないうちに会話の中にネガティブな言葉を使わなくなっていた。否定する際にも、ポジティブな言葉を使って受け答えするようになっていた。それは言葉の難しい部分ではあったが、自然と上手に言い換えるようになり、相手への印象が和らぎ、周囲の人に影響を与えるような人物に成長していくのである。


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