第42話 長い夜が明ける前③
握った木箱は割った石の欠片ほどに軽く、テーブルへと戻る足はやけに重かった。
バルディンは、箱の側面の金具に指をかけた。
脇から聞こえた「何持ってんの?」というカイの気楽な声には、耳を貸してやらない。
錆び付いて固くなったそれを少し力を込めて捻る。
カチリ、と乾いた音と確かな手応えが指の腹に返った。
「少し待っていろ」
椅子へと腰かけ、テーブルに据えた箱を見下ろす。
くすんだ真鍮の光沢も、木目に走る細かな傷も、どれもこれも覚えがある。
そういえば、ゼヴァルにも見せたことがなかったか。
バルディンはカイとゼヴァルへ目を向けた。
二人の視線は箱の一点に注がれている。
だが、この箱はすぐには応えない。
カーテンが夜気にそよぎ、オイルランプの芯がじっ、と小さく鳴る。
やがて、箱の側面から蒸気が細い筋となって立ち上った。
ことり、と内側で歯車の噛み合う音が一つして、リード笛に似た、柔らかな音色が流れ出す。
「これは、オルゴールという代物らしい」
耳に馴染んだその調べに聞き入りながら、遠き日のことをバルディンは思い返した。
見下ろせば、麓の森にエール酒の泡と見紛うほどの白い雲が広がっていた。
灰色の花崗岩と、褪せた黒と白が縞模様を描くミグマタイトから成る鈍色山脈において、これほど見事な白は無い。
雲海は山の帯に沿い、地平の果てまで途切れず続き、遠く先は霞に溶けて見ることは叶わない。
鈍色山脈は、大陸の東西をそうして端から端まで塞いで聳え、南北を分かつ。
日を受けても輝くことなく、鈍い銀灰色に沈むその山の姿に、祖先が名付けた名だという。
(たまにはエール酒も悪くない)
仕事終わりの一杯を考えながら、削りかけの山肌に杭を打つ。
耳を突く高い音が返り、割れた岩の隙間からざくろ石が覗く。
その深い赤に、バルディンはぶどう酒も捨てがたいと髭を撫でた。
杭を持ち替え、結晶の周りへ慎重に添えて鎚を振るう。
母岩から割り出したざくろ石の結晶を手のひらに乗せると、日に温もった赤い粒が陽射しを受けて煌めいた。
削って磨けばいい装飾になる。腕輪か、武具のあしらいか。
行商が来ればそこそこの値もつくだろうと考えて、暮れ出した空を見上げる。
(そろそろ頃合いか)
道具を腰の帯に片付け、大きく膨れた鉱石袋を背負う。
背中にずしりと響いた重みに、今日の成果も上々だと、同胞の元へと向かう足が大股になった。
山を削って刻んだ硬い段を、一段また一段と登っていく。
岩肌の平場に張りついた低い屋根が見えれば、石を積んで築かれた山ドワーフの集落だ。
「バルディン、遅かったな。交易の行商がもう来てるぞ」
段を登り切ったところで、名を呼ばれた。
同じ工房で腕を並べてきた古い馴染みのボルケルが、家の戸口から手を上げている。
そういえば今日だったか、とバルディンは革袋を担ぎ直す。
喉が渇き、くたびれているはずだったが、足は自ずと広場へ向いた。
着いた頃には、日がもう暮れていた。
客足が落ち着き、広げた布の品を片付け始めていた行商人が顔を上げる。
「何か見ていかれますか、茶髭のドワーフ殿」
銀の食器、藍色の織物、粗い塩。山では手に入らない品々が、雑多に肩を並べている。
目ぼしい物は無いかと見渡し、布の隅に目を留める。
それは、日用品や食料品に混じって、唯一用途を知ることができない小さな木箱だった。
行商人は何かを察したのか、その木箱を拾い、側面の金具に指をかけて捻った。
蒸気が細く吹き出し、ことり、と何かが動いた音がして、その箱は歌った。
(この世界には、こんなからくりを作る者がいるのか)
自分が今まで作ってきたものは、誰かの心を動かすものだったか。
そもそもこのからくりは、どうやって音を鳴らしている。
気づけば、その木箱は手のひらの上にあった。
バルディンは、オルゴールを見つめていた。
あの日と同じ調べが、あの日よりたどたどしい音で鳴っている。
途切れ途切れだが、優しい旋律。低い音の間を緩やかに行き来するフレーズが、耳に心地良い。
「弁を捻ると音が鳴る仕掛けでな。この曲は古くからあるドワーフの子守唄で、小さい頃よく聞かされた」
言いながら、指がひとりでに拍を追う。母が口ずさんだのも、この節だったか。
(そういえば、ゼヴァルにも)
出会って間も無い、まだこの若者が八か九の歳だった頃。
うなされて震えていた背中をさすり、歌ってやった。
懐かしいことだ。いつから歌わなくなったのだったか。
いつからこの若者は、毎夜流していた涙を見せなくなってしまったのか。
オルゴールが調子外れの音を鳴らし、バルディンは目を細めてそれを見下ろした。
「昔、外の世界から故郷に流れてきた、古いからくりだ」
テーブルへ首を伸ばしていたカイは「へぇー」と間延びした声を上げ、
「なかなか良いからくりだね。調子は悪そうだけど」
と続けた。
噴き出していた蒸気が、細くなり始める。
最後の一音を微かに震わせて、音色は途絶えた。
「このからくりを作った職人に、儂はずっと憧れておった」
木箱を持ち上げて裏返し、底面に刻まれた『Cadlick』の銘を指でなぞる。
あれから十数年、未だこの名を持つ者に会えないままでいる。
「だがもう昔の話だ」
箱をテーブルに戻し、ゼヴァルを見やる。
無表情でじっとこちらを見つめ、その青い瞳からは何も読み取れない。
だが、その顔に笑顔が浮かぶまではと、かつて誓ったのだ。
「儂はもう職人ではない。憧れは、とうに遠のいた」
移した視線の先で、曇りの無い赤い瞳と目が合う。
こやつには、同じ道を歩ませてはいけない。
「小僧。いつか、とはいつだ」
カイは口を開けたままでいる。
「情熱の火は、絶えぬうちに燃やし続けねばならん。その時が今と同じように訪れる保証は、どこにも無い」
バルディンは少年の瞳の奥に映る、オイルランプの小さな灯りに目を凝らした。
「お前さんは、今を生きねばならん」
火が揺らいだ。
カイが何かを言おうとして、俯き、暫しの間を置いて顔を上げる。
その目は、別の場所を見ていた。
「そのオルゴール、ちょっと借りてもいい?」
真意を計り損ねていると、「少し中を見たいだけ。壊したりしない」とカイは付け足して立ち上がった。
箱を渡すと、腰の工具ベルトからドライバーを抜き、慎重に金具に当てて一つ一つ回していく。
カチャリ、と音を立てて最後の金具が外れ、上蓋が持ち上げられた。
鼻がぴくりと動いた後、カイの口角がにっと上がった。
「見た時に凄く古そうだと思ったけど、やっぱり」
箱の中から、小さなふいごとピストン、真鍮の配管とリードを並べた板が覗く。
カイの指が、それらの隙間や継ぎ目を滑らかに辿っていく。
「これ、ずっと手入れしてるだろ。しかも凄く丁寧に。こんな古い部品が、まだ動くなんて」
手入れ、というほどのことでもない。真鍮細工には油を塗る。当たり前のことだ。
椅子に背中を預けていると、目で追っていたカイの指は上蓋を元の位置へと戻した。
赤い目がこちらを向く。
何か言いたげで、それでいて言葉にできずにいるまま、視線だけがこちらに留まっている。
「おっちゃんだって、人のこと言えないんじゃないの」
「……ふん、生意気なことを言う」
鼻を鳴らし、手元のオイルランプを見下ろす。
「儂の火はとっくに消えておる。そいつはただの思い出の品。職人の端くれとして、手入れは欠かさんだけだ」
カイが「ふーん」とだけ言って、オルゴールに視線を落とす。
「このオルゴール、部品を換えれば元の調子に戻りそうだよね」
「それくらい、儂にも見当がつく」
革袋のぶどう酒を一口含む。そんなこと、わかり切っている。
小首を傾げてカイがこちらを見上げる。
「じゃあどうして直さないの?」
「理屈はわかるが、仕組みがわからん」
「じゃあ、仕組みがわかれば直せるんだ。おっちゃん、やっぱ凄いね」
ぱっと笑みが弾けたかと思うと、すぐにカイの表情は萎んだ。
テーブルの上へ戻したオルゴールから、その指先は離れようとしない。
「……オレは、仕組みも理屈もわかってるけど、直せない。仕組みがわかれば……おっちゃんなら、オレの装置だって、直せるのかな」
絞り出されたその言葉に、バルディンの中で何かが、枯れていたはずの遠き日の何かが、疼いた。




