第26話 不穏の影
「ちょこざいな」
バルディンが手首を返して再度斧を振り払う。右側の一匹の胴体を斧が捉えたが、左側のもう一匹がバルディンへと迫った。
「ふん!」
斧を薙いだ勢いのままに、体を低く沈めながら右手を地面につく。
刻印が光を帯びると、地面が細長い柱となって魔物を腹から宙に打ち上げた。
落ちてきたところを、斧による渾身の一撃で叩き伏せる。
——ぼ、僕も何か。
その背中を固唾を呑んで見ていたアイウートが、剣をぎゅっと握り直した。残りは二匹、魔物はバルディンの勢いに押されている。
小川の方へと目を向ける。川べりでゼヴァルが二匹の魔物を相手取っている。剣槍が魔物の胴体を鋭く貫き、残りはあと一匹のようだ。
「あ……」
ゼヴァルの背後の茂みから、一匹の魔物が忍び寄っている。ゼヴァルはまだ気づいていないようだった。
「ぼ、僕だって……!」
「アイウートさん?!」
リエルが声を上げるより早く、アイウートは小川の方へと走り出した。茂みにいた魔物がゼヴァルの背後へ飛び出す。
「ゼヴァルさん! 後ろにもう一匹います!」
そう言って、アイウートは剣を頭上へ振り上げた。
ゼヴァルが後ろを振り返り、バルディンも目の前の魔物と斧で組み合いながら、小川の方へと目を向けた。
「僕にお任せください!!」
アイウートが渾身の力で剣を振り下ろす。刃は魔物の皮膚を裂いた——が、ぶ厚い肉に食い込んだところで止まってしまった。
引き抜こうにも剣はびくともせず、魔物が身をよじった反動でアイウートは体勢を崩した。
「うわっ……!」
ぬかるみに足を取られ、剣の柄から手が離れる。
地面に膝をついたアイウートへ、魔物がぬらりと向き直り、濁った目を向ける。咄嗟に、アイウートは右手を魔物へと向けた。
「と、止まれ……!」
右腕に刻まれた、腕を巡る波形の紋様が青い光を放つ。
ぬかるんだ泥の中の水が、縄のように魔物の四肢へと巻きついていく。踏み込もうとしていた魔物は、つんのめるように動きを止めた。
その一瞬をゼヴァルは見逃さなかった。目の前の魔物を剣槍で抑え込みながら、左手をアイウートの方へとかざす。
「氷の風」
水色の光とともに、地面に霜が降りていく。
時間稼ぎのはずだったが、魔物の四肢に巻きついていた水を経由して、霜は魔物までをも凍りつかせていった。
ゼヴァルは目の前の魔物を剣槍で薙ぎ払い、アイウートの元へと向かう。
剣槍をくるりと返し、凍った魔物を石突で強く打った。氷が砕け、魔物が塵となり消えていく。
後に残された剣が、泥の上に静かに落ちた。
「大丈夫か」
ゼヴァルが手を差し出す。ソーリアでモルトから向けられたそれと重なり、アイウートはぼんやりとその手を見つめた。
「……すいません」
剣を拾い、差し出された手をようやく掴んで立ち上がる。
泥に汚れた手のひらには、握り直した剣よりもゼヴァルの手の感触の方が強く残っていた。
ゼヴァルはバルディンたちの方へと目を向ける。ちょうど向こうも片付いたらしく、バルディンが斧を麻布で拭っている。
湿原は元の静けさを取り戻したようだった。
「大丈夫ですか!」
リエルが心配そうに駆け寄ってくる。視線がアイウートの腕でぴたりと止まった。
「アイウートさん、血が! すぐに手当てを」
言われて初めて気づいたように、アイウートは自分の腕に目をやった。袖が裂け、二の腕に浅い切り傷が走っている。
「あ、いえ……これくらい平気です」
「駄目です、お見せください」
柔らかな声で、しかしどこか断れない雰囲気をリエルは帯びていた。
アイウートが遠慮がちに腕を差し出すと、リエルは傷へそっと右手をかざした。
「見てみろゼヴァル」
バルディンが討伐証票を掲げながら三人の元へと歩いてくる。証票の表面には、細かな紋様が点々と浮き上がっていた。
「確かに紋様が浮いておる。この調子で魔物を倒していけば、いい路銀になりそうだ」
「それにしても、数が多かったな」
ゼヴァルが怪訝そうに呟く。その隣でアイウートも眼鏡を直しながら頷いた。
「そうですね、妙だと思います」
治療はもう終わったようで、浅い傷のあった場所には薄い跡が残るだけになっていた。
「報告書には魔物は全て討伐され、巣らしき物も見当たらなかったと書かれていました。調査は一週間前。これだけの数の魔物を、討ち漏らしていたとも考えにくいです」
バルディンが証票を懐に戻し、髭を撫でる。
「ふむ。あの足跡も気がかりか。最近この辺りを通った者がいたと考えると、魔物の情報が伝わっておらんとおかしい」
「もしくは、全員魔物にやられたか」
ゼヴァルの言葉に、四人の間に沈黙が落ちた。道の先を振り返る。
「先に進もう。警戒は怠るなよ」
*
陽が高くなる頃には、湿原を覆っていた靄もすっかり晴れていた。
一行は手頃な岩場で足を止め、乾燥させた堅パンで簡単に昼食を済ませた。
アイウートの案内で、道に沿って湿原の西側へと向かう。
あれ以来、魔物と遭遇することは無かった。穏やかな湿原の風景が静かに続いている。
「もうすぐ湿原の北側に着きます。この湿原は概ね楕円状なので、西側まであと半分というところです」
「これでまだ半分か」
バルディンが革袋のぶどう酒を飲んで、ふうと息をつく。
リエルも息を切らしながら何とか付いてきている。昼の休憩で幾らか体力を取り戻したようだ。
一方のゼヴァルは、絶えず辺りを見回していた。魔物との戦闘以降、昼食時も緊張を解いていなかった。バルディンはそれに気づいていた。
「ゼヴァル。大きなお世話かもしれんが、少し肩の力を抜け」
耐えかねたようにバルディンが言う。ゼヴァルは生返事をするだけだった。
変わらず辺りを見回し、そして急に立ち止まった。
「——っと、どうした。その気になったか?」
バルディンがゼヴァルを見上げる。ゼヴァルの青い瞳は、珍しく瞳孔が開いていた。
並んで歩いていたアイウート、リエルも立ち止まってゼヴァルが見つめる先に目を向ける。
「一体何が——」
道の端の葦原の空間が、不意に歪んだ。気がつくと、そこには見覚えのある黒い人影が立っていた。
「お前は……」
バルディンが息を呑む。
「ご機嫌よう、皆さん。傷はもう癒えましたか?」
「アポスタティア……!」
ゼヴァルとバルディンが同時に武器を取った。リエルは後ずさり、アイウートは状況を飲み込めずにおろおろしている。
アポスタティアは不敵な笑みを浮かべながら、腹部を指ですっとなぞっていく。
「私はこの通り、癒えました。ですが、あなたに受けた屈辱は癒えることはありません」
暗い赤の瞳がゼヴァルへ向けられる。血の海のように淀んだ色の底で、何かが静かに息を潜めている。
「何の用だ」
ゼヴァルが尋ねる。アポスタティアは肩をすくめた。
「つれないですねぇ。そういうところもあの狼にそっくりだ。それとも、あなたはもう氷になってしまったのでしょうか」
ゼヴァルは微動だにしていなかった。リエルは何故か、その静けさに胸が刺されるような感覚を覚えた。
アポスタティアがリエルに視線を移す。目が合い、我に返ってリエルの肩が強張る。
「今日はこの前のお礼と、改めてのご挨拶に伺いました。あなた方がそのお嬢さんを厄介な結界の外に連れ出したおかげで、私の仕事が一つ減りましてね」
「どういう意味だ」
「言葉の通りです。少し予定は狂いましたが、順風満帆、とでも言うのでしょうか。計画が順調だと、とても気分が良い」
アポスタティアの視線が四人を通り過ぎていく。剣の柄を掴んだまま固まっていたアイウートの肩が、びくりと震える。
「新しいお仲間も増えたようで。賑やかなのは良いことです。どうぞ今は、その旅路を存分に満喫してください」
それからリエルへ向き直り、アポスタティアは唇の前にそっと指を立てた。
「時が来ればお迎えに上がります。私は常に、あなたのことを見ていますよ」
空間が歪み、言葉の余韻とともに忽然とアポスタティアの姿は消えた。
ゼヴァルとバルディンが武器を下ろす。張り詰めていた空気がぷつりと途切れたが、しばらく皆言葉を失っていた。
「い、今のは……?」
アイウートが呟く。一瞥されただけで、身の毛がよだつような恐怖を覚えた。体の震えがまだ収まらない。
「アポスタティア、奴が言うには、魔人だ。前に一度だけ会ったことがある」
「ま、魔人!? 魔人は遥か昔に封印されたはずじゃあ……?」
バルディンの言葉にアイウートがぎょっとする。ゼヴァルが剣槍を背中に戻しながら、淡々と答えた。
「俺たちにもわからない。その謎を探るために、俺たちは旅をしている」
「み、皆さんは、一体何者なんですか……?」
「さあ、何なんだろうな」
ゼヴァルの声は、まるで自らに問いかけるような響きだった。リエルはその言葉を、そのまま自身の胸にも投げかける。
風が止み、湿原は静まり返っていた。傍らで佇む葦の穂は、答えを探すようにただ俯いていた。




