四
「先生、ついて来ているな? ここが目的地だ」
子墨はなにか返事を返そうと息を吸うが、声を発するよりも先に、皇帝が両手を突き出し扉を開く。
部屋の中には闇が淀み、子墨には様子がわからない。
「ふむ、灯が消えておるな」
皇帝は部屋の入り口に設置されている灯火を持って部屋の中へ入る。
子墨が続くと、背後で扉が閉まった。
護衛のふたりが閉じたのだろう。
狼狽する子墨に、皇帝が声をかける。
「その場で少し待つが良い」
皇帝は、部屋に設置されている蝋燭に、火を移していく。
しかし、部屋はかなり広いようで、なかなか様子を確認することができない。
感覚を研ぎ澄ませていると、闇の中から微かなうめき声が聞こえ、子墨は身を固くする。
「な、なにが――」
「今少しだ、先生。今少し待つのだ」
皇帝の声から程なくして、ようやく部屋全体が灯りに照らされる。
同時に、子墨は息を呑み、おもわず後退る。
「どうしたのだ、先生」
いつの間にか、傍らに立っていた皇帝に気付いて、子墨はギョッとなる。
「あっ! ……へ、陛下、あれは、いったい!」
そう言って指さされた部屋の中央と、子墨の顔を交互に見てから、皇帝は穏やかな笑みを浮かべた。
「うむ、先帝だ」
「は?」
今度は、子墨が皇帝の顔と、自ら指差した対象を交互に見る番だった。
「せ、ん……てい?」
視線の先には、人間らしきものが横たわっている。
その両腕両足は切断され、性器は削ぎ落され、全身の皮膚はところどころ剥され、残っている部分は火傷でケロイドになっている。
顔は、左目だけを残して、右目と両耳、鼻と口は、ただの穴にされている。
顔に辛うじてへばりついている皮膚のシミと、まだらに生えている白い髭が、どうやらこの人物が老人らしいと、子墨に伝えた。
「前、皇帝、陛下!? な、なんで、こんなことに――」
「余がやったのだ」
「はっ? はぁっ!?」
なんでもないように言った皇帝に、子墨は混乱のあまり敬語を使わず疑念を口にする。
「な、なん……なんで、こんな真似を!?」
「何故と問われれば、〝愛〟ゆえと答えるほかあるまい」
意味を測りかね、子墨は絶句する。
「他でもない、陛下御自身が、そうおっしゃられたのだ」
「な、なに……なんの、こと――」
「口で言っても理解はできまい。これを見よ」
そう言うと皇帝は、着物の帯を解き、体を晒した。
咄嗟に視線を逸らす子墨に、皇帝は命じる。
「我が身を直視せよ」
そう命じられては、見ないわけにもいかない。
視線を皇帝に向けると、子墨の顔はみるみる歪んだ。
「ど、どうなされたのですか、そのお体は!」
子墨から問われ、皇帝はにんまりと笑みを浮かべる。
「先帝陛下より賜ったのだ」
その裸身には、惨たらしい傷痕が、無数に刻まれていた。
特に、単なる傷ではなく、明確に外科的な処置が施されたとわかる股間を見て、子墨は口を押さえた。
戦慄する子墨の反応を楽しむように、皇帝はにこやかな顔で説明する。
「これも先帝の指示を受け、侍医が改造したのだ。突っ込める穴は、多いに越したことはないそうでな」
そう言って、皇帝は金襴の布で覆われた左目を指差す。
その意味を察し、子墨はついに堪え切れず、床に嘔吐した。
「おや、先生。どうしたのだ?」
首を傾げる皇帝に、子墨はえずきながら問い返す。
「な、なん、で――」
「んん?」
「なんで、先帝陛下は、そんな真似を?」
「だから、愛ゆえと言うておろうが」
意味がわからず問いを重ねようとする子墨を、皇帝は手を挙げて制する。
「先帝は後宮の女たちの中で、余の母である後宮の若き寵姫を、ことのほか深く愛しておられたらしい」
「は……母、君?」
「うむ。そんな寵姫が御子を身籠ったと知って、先帝は狂喜された。なにしろ正室は子宝に恵まれなかった。喜びはひとしおであったろう」
かくり、と首を折り、皇帝は胸に手を当てる。
「しかし、余はかなりの難産の末に生まれたらしくてな。母は体力を使い果たし、出産直後に亡くなった。先帝の悲しみは、言葉で言い表せるものではなかった。政など到底手につかず、国が傾く程だ」
今の国の状況の意外な原因を知って、子墨は唖然とする。
「悲しみに打ちひしがれた陛下は、寵姫の代わりを求めた。しかし、陛下の心痛を癒せる姫はおらず、むしろ怒りを買った側室たちは次々と首を刎ねられた。後宮の女が半分程に減った頃、陛下は亡き寵姫の代替がいることに気付いた。それが余だ」
皇帝ははだけた着物をなおしながら、語り続ける。
「余は母とよく似ているそうでな。とはいえ、男だ。後継としては、むしろ望むべくもなかったが、陛下にはそんなことなどどうでもよかった。ゆえに、数えで十を迎えた歳に、余は判官と同じ処置を受けた。さらに、侍医は我が母である寵姫の代わりを務められるよう、この身を改造した」
先程目にした悍ましい光景を思い出し、子墨はふたたび胃液を吐き散らした。
「母の代わりを得た陛下の喜びようたるや、常軌を逸していた。四六時中余を放さず、〝愛〟を注ぎ続けた。しかし、同時に陛下は余をひどく憎んでもいた。余が生まれなければ、母は死なずに済んだのだ。だから、愛する一方で、余を痛めつけ、壊した」
皇帝が腕を持ち上げると、いつの間にかその手には、凶悪な意匠の刃物が握られていた。
部屋の壁には無数の拷問器具がかけられており、先程灯を点けてまわった際に、そのうちのひとつを手に取ったのだと察せられた。
「そう……こんなふうに!」
皇帝の振り下ろした刃の切っ先が、先帝の肩口を抉った。
先帝は、どうやら喉を傷めているらしく、発情期の猫を想わせる掠れた悲鳴が、喉の奥から発せられた。
皇帝は子墨に視線を向け、短く命じる。
「治せ」
皇帝が刃を引き抜くと、子墨は弾かれたようにその傷に跳び掛かり、血が吹き出しているところに手を当てた。
途端、掌から青白い光が放たれる。
「……おおぉ」
皇帝が感嘆の声を漏らした。
先帝の傷から流れ出ていた血が、瞬きするほどの間に止まったのだ。
「退け!」
皇帝は子墨を乱暴に押し退け、先帝の傷を袖で拭う。
今開けたばかりの傷は、数ヶ月も経ったかのように塞がっていた。
「素晴らしい! やはり先生の〝力〟は本物だった! これで、これからも生かしたまま、父上を壊し続けることができる!」
「……なん、ですって?」
身を起こしながら、子墨は愕然とした顔を、皇帝に向ける。
「陛下は、自分が傷付けられた復讐に、先帝陛下を生かしたまま痛めつけ続けるため、私を招いたのですか!?」
「復讐ではない。愛だ」
皇帝は、身を起こすと、両手を広げて子墨に狂気的な笑みを向ける。
「父上は、いつだって愛を語りながら余を拷問し、憎しみを叫びながら抱いてくださった。ならば、余も同じだけの愛を返すのが、息子として精一杯の孝行ではないか!!」