三
予告もなく皇帝が薄布の外へ出てきたため、子墨は慌てて頭を下げる。
「面を上げよと言ったはずだ」
そう言われ、おそるおそる顔を上げる。
皇帝の姿を見て、子墨は大きく眼を見開いた。
若い。
二十にも満たぬかもしれない。
顔は中性的で、左目を金襴の布で覆い隠している。
また、顔には化粧が施されており、肌は白く塗られ、目の周りは薄黒く、口には紅ではなく瑠璃の顔料が引かれていた
服装こそ貴人らしいものの、異様な出で立ちだ。
顔だけ見ると、妓楼の娼婦、いや、道化のようではないか。
皇帝はゆっくりと段を降り、子墨に近付いて来る。
頭を下げようにも、面を上げろと命じられている以上、子墨は皇帝に視線を向け続けぬわけにはいかない。
子墨よりも二段高い位置で、ようやく足を止めた皇帝は、目の前で跪いている男をしげしげと観察すると呟いた。
「思ったより、若いな」
またも、なんと答えたものか迷っていると、皇帝は薄く微笑みを向けてきた。
「会いたかったぞ、先生。今は貴公だけが頼りなのだ。余に力を貸してくれ」
「わ、私にできることであれば、なんなりとお命じくださいませ」
「ほう? 頼もしいことを言ってくれるではないか」
皇帝は首を傾け、ころころと笑い声を漏らした。
それを耳にした瞬間、どういうわけか、子墨の背筋に怖気が走る。
「先程も伝えたが、貴公のことは調べさせてもらった。徹底的にな……なんでも、手を翳しただけで、どんな怪我も病も癒してしまうとか。ペテン師かとも思ったが、散々調査させ確証を得た。本物なのであろう? 不思議なものだな」
やはり、目当ては己の〝力〟か、と子墨は得心する。
いろいろ意表を突かれることもあったが、どうやら当初の予想通りにことが運びそうだ。
「そんな特別な力を持ちながら、なにゆえ貧民街に棲み、無償で奉仕活動などしているのか……それは、人の欲というものを、心底から厭うているからだ。違うか?」
内心を見透かされたような指摘に、子墨は身を固くする。
「貴公は東山省のはずれの寒村の出身らしいな。何処にでもあるような平凡な農家の平凡な夫婦が、どういうわけか神の如き力を持った子どもを生んだのだから、世の中というのはわからぬものだ」
徹底的というのは、そこまでか、と子墨は驚愕する。
少なくとも西慶に自分の過去を知る者などいない。
いったいどのようにして調べあげたというのか。
「幼い頃の貴公は、枯れかけた花や、病気の家畜を遊び感覚で癒していたのだとか。しかし、両親からその力を人に見せてはいけないと、きつく言い聞かせられていた。ある日、貴公はその言いつけを破った。事故で怪我を負った村人を癒したのだ。貴公は良いことをしたのだから感謝されるものと思ったに違いない。ところが、得体の知れぬ力を持った子どもを、村人は怖れ、迫害した」
大昔に封印したはずの記憶が、子墨の脳裏に蘇る。
罵声を浴び、石を投げられても我慢できたが、あの目だけは耐えられなかった。
同じ人ではなく、バケモノを見るような視線を向けられ続けたのだ。
「そんな生活に疲れ果てた両親は、とうとう我が子を売り払った……それ以降、貴公とかかわる者は皆、貴公を利用するか、怖れて忌み嫌った。そして利用した者の多くは、我欲によって自滅していった……偶然の成り行きから、奴隷同然の立場から解放された貴公は、しばらくは力を隠して生きてきた。ところが、数えで三十路を越えた頃、なにを思ったのかここ西慶にやって来て孤児院を開き、己の人生を狂わせたその〝力〟を使って人々を救うようになった……配下からはそのように報告を受けたのだが、相違あるまいな?」
子墨はしばしの間俯き、口を噤んでいたが、やがて青褪めた顔で皇帝を見上げた。
「相違ありません」
ニタリと笑みを浮かべた皇帝に、問いかける。
「おそれながら……なぜ今更、そのような過去を私に思い出させるのでしょうか」
「無論、余が先生の理解者であるということを知ってもらうためだ」
皇帝は、嘲弄するような表情を浮かべて続ける。
「ただ先生には、これだけは承知しておいてもらいたい」
「……なにを、でございましょうか」
皇帝は身を屈めると、問いを返した子墨の顔を覗き込む。
「先生は己が不幸な生を歩んできたと思っているのだろうが、それは大きな間違いだ。本当の不幸は、貴公には想像もつかぬものだと知れ」
その言葉の奇妙な重みと、皇帝の虚ろな表情に、子墨は口内の唾液を音を立てて飲み下す。
しかし、年若い皇帝に対する恐れを必死に押さえ込み、言葉を返す。
「私は……己が不幸であるなどと思ったことは一度もございません。まして、この街へ来てからの私は、大切なものを得て、幸福な日々を送ってまいりました」
皇帝は、表情の抜け落ちた顔で、凝っと子墨の顔を見つめ続けたが、ゆっくりと姿勢を戻すと、人の良さげな笑みを浮かべて頷いた。
「うむ、さすがは〝下町の聖者〟である。やはり人から敬われる人間というのは違うな」
そう言うと皇帝は、くすくすと笑いながら、何度も頷き続けた。
愉快そうな皇帝に対し、子墨はずっと胸騒ぎを感じていた。
己は誰かを癒すために呼ばれたのではないのか。
疑念が胸の内で膨らみ、耐えきれなくなった子墨は、ついに問いかけた。
「わ、私は、なぜこの場に呼ばれたのでしょうか。どうかお教えください」
途端、皇帝の笑い声が止む。
「おお……そうであった……貴公に癒してもらいたい者がいるのだ」
「さようでございますか。して、そのお方はいずこに?」
「ああ……これより案内するゆえ、ついて参れ」
そう言って、皇帝は子墨に背を向けると、段の上へ向かって歩き出した。
「……へ? あ、し、承知いたしました」
子墨は慌てて立ち上がると、数歩分の間を開けて、皇帝の後を追う。
皇帝は広間の端の出入り口から外へ出る。
薄布の内には皇帝の付き人の影が見えていたが、動く気配はない。
子墨は不安を覚えながらも、皇帝を見失わぬよう後を追った。
広間の外へ出て間もなく、庭を一望できる外廊下が現れた。
いつの間にか夕暮れ時を迎えていたようで、外の景色は血のような赤一色に染まっている。
やはり庭は荒れているが、往時には余程見事な景色を楽しめただろうと、子墨にも察せられた。
「……ここは、いったい」
「後宮よ」
先を行く皇帝が呟いた言葉に、子墨はギョッとなる。
部外者、特に男の入って良い場所ではないのではないか。
そんな子墨の考えを見透かしたのか、皇帝は言葉を付け足す。
「案ずる必要はない。女官共は概ね処分した。先生を非難する者など、ここにはおらぬ」
皇帝が「処分」と口にした瞬間、子墨の心臓が跳ねた。
「処分」とは、具体的にどのようなことなのか。
想像しそうになっていると、皇帝はさらに続けた。
「それと、あの者たちのことは気にせずともよい」
「あ、あの者?」
「なんだ、気付いていなかったのか? 後ろのふたりだ」
子墨が振り返ると、漆黒の装束を着て、顔を黒い布で覆った二人組が、後からついて来ていた。
「あ、あれは――」
「余の護衛だ。先生が余に狼藉など働かぬ限りは、ただの空気や影と変わらぬ」
背後のふたりは、完全に同じ間隔で手脚を動かし、後を追って来る。
人というより、時折大道芸人が披露する、絡繰り仕掛けの人形のようだと子墨は思う。
しばらく進むと、皇帝は廊下を左へ曲がり、後宮のさらに奥へと入っていく。
廊下には等間隔で灯火が設置されており、殺風景な屋内を照らし出している。
広間への廊下といい、どうしてこうも無駄に長いのかとうんざりしてきたところで、突き当りに扉が出現した。




