後篇
一瞬、沈黙が下りた。
ティルダは恐る恐る目を開け、上目づかいでローラントを見た。
彼は優雅に足を組み、肘掛けに肘をつき、くつろいだ様子で頬杖をついている。彼女の予想に反し、怒っている様子もない。むしろ面白がるような目をしている。
「それは面白い」
「へ?」
ローラントがあまりにもあっさり了承したため、肩透かしを食ったティルダは頓狂な声を上げた。
「監禁されてあげよう」
「よ、よろしいのですか!?」
「──何を驚いているんだい? 君の言う通りにするんだ。素直に喜びなさい」
満面の笑みのローラントに反し、ティルダは徐々に不安になる。
「は、はあ……」
煮え切らない返事が口を突く。
まさかこうあっさりと事が運ぶとは思ってもみなかった。
怒り心頭のローラントから激しく糾弾されることを覚悟していたし、下手をしたらその場で斬り捨てられることもあるだろうと想像していたのに。
目の前の王子は、不思議なほど落ち着き払ったうえに楽しそうだ。
正直に心情を吐露すれば──不気味だ。
なんだか取り返しのつかないミスを犯してしまったような気がして、ティルダの胸の奥がざわざわと騒いだ。
「ところでティルダ。君も知ってのとおり、私はそこそこに強い」
そこそこどころか、護衛の騎士たちと対等に渡り合うほど強い。
王族の護衛につく騎士は国でも屈指の精鋭だ。その彼らと真っ向から渡り合える腕なのだから『そこそこ』は謙遜が過ぎる。
「私が本気になれば、君ひとりくらい容易く取り押さえられる。わかるね?」
「はい」
彼女もそれは承知していた。だからこそ、斬り捨てられる覚悟までして挑んだのだから。
「では私がその気を起こさないように、君は一晩中私を楽しませなけれればならないよ」
彼は艶をたっぷり滲ませて、にぃ、と唇を吊り上げた。
「さぁ、君はどうやって楽しませてくれるのかな。楽しみで仕方がない」
一言一言を区切るようにゆっくりと告げる。
形のよい唇が動く様子はいやに艶めかしく、目が釘付けになった。
「ティルダ。私の話、ちゃんと聞いているかい?」
「え? あ、は、はい! 聞いております!」
「そう。なら良い。──日はまだ落ちたばかりだ。夜は長い。ふたりでゆっくり楽しもうじゃないか」
意味深な流し目と含み笑いに、ティルダは心の中で大きな悲鳴を上げた。
事態は、彼女が予想したものと全く違った方向に前途多難なようだった。
ローラントの意味深な発言に反して、何事もなく夜が更けた。
昼でもしんと静まり返った棟がさらに静まり返り、世界に存在するのはローラントとティルダのふたりだけ……そんな錯覚を起こしてしまいそうなほどだ。
空には美しい上弦の月がかかっていたが、分厚いカーテンをきっちりと閉めた部屋にいては月明かりにさえ気づかない。
ティルダの持ち込んだもので夕食を終えた後、ふたりは他愛もない会話に興じていた。
日々のこと、子ども時代のこと、ティルダの故郷のこと──
ふたりが初めて会ったのは、王宮ではない。
北方の視察で、猫族の領地へローラントが足を運んだ時が最初の出会いだ。
猫族はその容姿が猫に近ければ近いほど、優れた者とされている。土地を開拓し、外敵から守り、勇敢に生きて死んだ祖先の魂に近い魂を持っているとみなされるからだ。
だから耳と尻尾以外、猫としての特徴を持たないティルダは冷遇されていた。
族長の末娘であったため苛められることはなかったが、しかし家族以外の者の目は冷たく、一歩家を出れば、まるでそこにいないかのような扱いを受ける。
それが悲しくなかったはずはない。それが彼女の心を傷つけなかったはずはない。
なのに、ティルダは俯かず、まっすぐに前を見つめていたのだ。そして笑っていたのだ。
族長である彼女の父に紹介されるより前、ローラントは偶然、裏庭で使用人とともに洗濯物を干す彼女の姿を見かけた。
猫族が容姿を重んじる性質なのは彼も事前から知っていた。
だから、ティルダの容姿が異端なのも一目で分かった。
おそらく冷たい扱いをされているのだろうとも察しがついたが、しかし、彼女はローラントの予想に反して、卑屈にもならず楽しげに笑い声をあげている。それが彼の耳に残った。
銀の髪に白い耳。陽光にキラキラと輝き、彼の心を惹きつけた。
だから、彼女の父がティルダの行く末を案じ、王宮に伺候させたいと願い出た時、二つ返事で引き受けたのだ。
侍女として働き始めた彼女は微笑ましいほど生真面目だった。初めこそ失敗はしたものの、それはすぐ努力で穴埋めしていった。
今ではもう立派な侍女だ。
故郷の話を振れば楽しそうに乗ってくるが、しかし、帰れないことを知っているから時おり遠い目をする。
ローラントは手を伸ばし、そっとティルダの髪に触れた。
途端、くつろいでいた彼女は一瞬で身を固くした。白い耳がこれ以上ないほどピンと立っている。
「ローラント様!?」
「ああ、すまない。君の髪が柔らかそうで、触れてみたくなったんだ。不快だったら申し訳ない」
「不快だなんて、そんなこと!」
慌てて打ち消すが、彼女の緊張は解けない。耳はピンとしたままだ。そんな純情な反応に、ローラントは小さく笑った。
「ローラント様。もう遅い時間です。そろそろお休みになられては……」
「その進言は却下する」
「え!?」
その反応に気を良くしたのかローラントは彼女のほうへと身を乗り出した。
「私を寝かせてしまえば良いと思った? でもそれは少し怠慢じゃないかな。今宵は君が私を楽しませてくれる約束だろう?」
「明日のお仕事に障ります。どうか」
意地悪に、少しばかりの色気を乗せて微笑む。
目が離せなくなりそうで、ティルダは慌てて目を伏せた。
「嫌だね。さぁ話の続きをしよう。──ああ、その前にワインをもう一杯もらえるかな?」
「かしこまりました」
空になったグラスに、急いで深紅の液体を注ぐ。
ローラントが泥酔してしまったら、いざと言う時に危険だ。そうは思ったけれど、しかし飲むなと言えば、その理由を厳しく追及されそうで躊躇する。
いつもの穏やかな彼とは違い、今晩のローラントはやけに上機嫌だったり、かと言えばとても意地悪だ。
うかつなことを喋ればこの計画が灰燼に帰しそうで怖い。
上機嫌にすいすいとワインを飲み干すローラントを見ながら、そんなにたくさんのワインを用意してしまった夕方の自分を恨めしく思った。
「ティルダ。そろそろ夜も終わりだね」
徹夜をしたというのに、ローラントは疲れひとつ見せていない。
「はい」
カーテンの向こうから朝陽がうっすら指しているのが見えた。緊張した一夜が過ぎようとしている。
部屋を訪ねてくるものはおらず、襲撃もない。
ティルダは深々とため息を吐いた。
張りつめた気持ちが緩んで、どっと疲れが押し寄せた。
ほう、と息をつく彼女をじっと見ていたローラントは、そろそろ頃合いだろうと判断し、口を開いた。
「そろそろ、私をここに閉じ込めた理由を話してくれるかな?」
「そ、それは……。申し上げられません……」
「なぜ?」
ティルダは彼から視線を逸らし、唇を噛んだ。
「ティルダ?」
嘘も隠し事も許さない。ローラントの目は厳しく彼女を追い詰める。
が、しかし、それでもティルダは沈黙を貫いた。
「ティルダ。全て話しなさい」
「申し訳ござません」
抱えた秘密を暴くように、ローラントはティルダの目を覗き込んだ。
彼女の瞳が揺れる。
ローラントはそれを見逃さなかった。
「ティルダ、ティルダ。私はそんなに頼りないかい?」
「あ……」
落ちた、とローラントは察した。
立ち上がり、彼女の横へ腰を下ろす。そっと肩を抱き、耳元で囁いた。
「大丈夫。私は何を聞いても驚いたりしない。さぁ、話しなさい」
「私……私……」
気がつけば、彼女は見たこと、聞いたことを洗いざらい吐露していた。
北方の田舎で育った生真面目な娘が、海千山千の王宮で育ち頭角を現している男に敵うはずもない。
「そうか、兄とルイトガーがそんなことを」
ローラントは喉の奥でくつくつと笑った。
「それで君は私が暗殺されるのではないかと心配してくれたのだね?」
「も、申し訳ございません。畏れ多くもクラウディオ殿下をそのように疑うなど、臣下にあるまじき行為を……」
「ふふ、嬉しいな」
またしても予想外の答えが返ってきて、ティルダは目を丸くした。
昨夜から驚くことばかり起きていて、目を剥くのが何度目か覚えてもいない。
「ローラント様!?」
「君は己が身を顧みず、私を守ろうとしてくれたわけだ。これを嬉しいと言わずしてなんと言う?」
彼はティルダをぎゅっと胸に抱き込んだ。急な展開についていけず、ティルダはただ身を固くして彼の腕の中でじっとしている。いや、凍っていると言った方が正しいかもしれない。
しかし、じっとしていては埒が明かない。
驚愕を無理やり胸に押し込めて気を取り直した彼女は、自分を絡めとる腕からするりと逃げ出した。
「おや?」
素早い身のこなしにローラントも驚いたようだ。
「さすが猫族の娘だ。素晴らしい」
などと感心している。
「ローラント様!! お戯れが過ぎますっ」
「すまない。つい」
ついで済むか! と言い返したいのをぐっとこらえて、あこがれの侍女頭の姿を脳裏に浮かべた。彼女ならこんな時どうするだろう? 答えは明白だ。きっと王子の戯れを回避しつつ黙殺し、話を進めるだろう。
「ローラント様、どうしてそう落ち着いていらっしゃるのですか? クラウディオ殿下とルイトガー様のことは……」
「ん? ああ。それなら何となく察しが付く。大丈夫だよ」
「ですが!」
「そろそろ戻る頃か」
食い下がるティルダをよそにローラントは独り言をつぶやき、立ち上がった。
彼女の脇をすり抜け、ドアに手をかけた。
「話すより、その目で見た方が早いだろう。ついておいで」
朝もまだ早い廊下には人影もまばらだ。
ティルダの敏感な耳には遠くから人の立ち働く音がかすかに聞こえてくる。おそらく厨房あたりだろう。
しかし、まだ王宮のほとんどは眠っている。
「ローラント様、こんな時間にどちらへ?」
小声で尋ねる。声に咎めるような色が混じるのは、どう考えても人を訪問するのに妥当な時間ではないからだ。
「まぁ、このあたりでいいだろう。ティルダ、窓の外を見てごらん」
窓のそばに寄りかかって外を見るローラントに促されて、ティルダも窓に近寄った。本当に安全なんだろうか? まだ確信の持てない彼女は身を隠すようにして窓を挟んでローラントの反対側の壁に身を添わせ、そっと外をうかがった。
眼下には裏庭が広がている。庭を突っ切るようにまっすぐに延びる道は使用人が出入りするための通用門に通じている。
「ほら。私の予想通り。現れたよ」
彼の目線をたどった先には、ふたつの人影。ふたりとも長身で、目深にフードを被っていた。
このままでは顔が見えない、と思っていたところ、ふたりは何やら楽しげに話しながらフードを外した。
「クラウディオ殿下!? ルイトガー様!?」
驚きのあまり声が裏返る。露わになった顔は彼女のよく知っている人物だった。
「まったく王太子ともあろう者が困ったものだ。暇を見つけては城を抜け出し、酒場で飲み明かしているんだからね。いくら注意しても一向に収まる気配はない」
ローラントは腕を組んだまま器用に肩をすくめ、ため息をついた。
「市井の現状を知るのも、為政者の務めだとかなんとか大仰な言い訳をしてるけどね。要するに羽目を外して遊びたいだけ。あの悪癖さえなければ兄は完璧なのにね」
「──もしかして……」
もしかして、昨日聞いた会話は?
「そう。暗殺の相談ではなくて、私に見つからず城を脱出する相談」
「ち、違ったのですね。良かった……」
思った途端、全身の力が抜けて、ティルダはその場にへなへなと座り込んだ。
安心した次の瞬間、とんでもない勘違いに顔を真っ赤にし。
その次の瞬間には、早とちりでローラントを閉じ込めたという事の重大さに、顔を青ざめさせた。
「そんなところに座っていては体が冷えてしまうよ。さぁ、これで気が済んだろう? 戻るぞ」
腰を抜かしたまま百面相を続ける彼女を抱き上げると、ローラントはさっさと一晩を過ごした客室へと戻った。
途中で何度も下ろしてほしい懇願したものの
「そんなに大声を出すと誰かに見られてしまうかもしれないよ。それで君は良いのかな?」
と脅され、結局はおとなしく運ばれる羽目に陥った。
受難はそれだけでは終わらなかった。部屋に戻れば下ろしてもらえると信じ切っていたのに、ティルダはいまだに彼の腕の中にいる。
正確に言えば、ソファに座る彼の膝に横抱きにされているのだ。
何で!?
どうして!?
何が起きてるの!?
彼女の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
「そろそろ下ろしていただきたいのですが……」
「嫌だ」
とすげなく言い捨てて、ティルダの銀の髪に顔を埋めた。彼の吐息が耳にかかって全身がびくんと跳ねた。
「さて。既成事実は出来たことだし、君のお父上に手紙を書かないとね」
楽しそうに囁く。甘くてどこか黒い声に、ティルダの胸がざわざわと騒いだ。
昨日の夕方、彼をこの部屋に案内した時の胸騒ぎによく似ている。
「既成事実? 手紙? な、な、なんのことでしょう、か……」
予想よ、外れて。
そう願いながら、彼女は乾いた笑い声をあげた。
「つれないことを。君と私は一夜を共にした仲じゃないか」
「なっ!?」
弾かれたように顔を上げれば、ローラントの端正な美貌が間近に迫っていた。
その顔には心底嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「ローラント様! ゆ、昨夜は何も……」
「何かあったか、無かったかなんて問題じゃない。私と君が一晩同じ部屋で過ごした。そのことをみんなはどう思うだろうね?」
満ちた足りたと言わんばかりの顔で、再び彼女の髪に顔を埋めた。
「で、でも、私は侍女です!」
「身分違い? 幸いなことに君のお父上は爵位を持っている。何の問題もない」
「でも、でも、私は出来損ない──」
「ああ、もう、うるさい口だね。塞いでしまおうか」
苛立ちと愛おしさ半々の感情で、ローラントはティルダに口づけた。彼女の喉の奥で悲鳴が凝った音が聞こえた。無駄だと分かっていても、腕を抜けようともがく細い体。それを腕力にものを言わせて抑え込んだ。
彼女の体から力が抜け、大人しくなったのを確認してから、ローラントはゆっくりと体を離した。
「出来損ないだなんて、そんな卑屈な言葉は君の口から聞きたくない。君は君だ。お父上から君のことを頼まれて以来、ずっと見てきた。馬鹿がつくほど生真面目で、努力家で、少しばかり慌て者だが、しかしひたむきで
……眩しかったよ。同時にどうしても君が欲しくなった」
混乱がおさまらないティルダの頭に、彼の言葉が染み込んでいく。
「冗談……ですよね?」
敬愛しているローラントが、自分をそんな風に見ていたことが信じられない。
「冗談なものか。私はこれまでに何度も気持ちを打ち明けているんだがね。純情すぎて鈍い誰かさんは全く気付いてくれない」
その、鈍い誰かさん、と言うのは自分の事なんだろうか?
この話の流れでそれ以外はあり得ないと理性は分かっているのに、感情が追い付いていかない。
「と言うわけで、昨日の君の行動は私にとって好都合だった。こんな好機逃す手はあるまい?」
確かに好機をみすみす逃すのは下策だ。
しかし、素直に頷ける状況でない。ティルダは何かを言おうとしては迷い、口をパクパクさせながらローラントを見上げる以外になかった。
「種明かしはこのあたりでもういいだろう。次は君の返事を聞く番だ。私のことが嫌なら今すぐこの部屋から出て行きなさい。金輪際、私と顔を合わせたくないと言うなら、どこか良い勤め先を斡旋しよう。大丈夫、振られた腹いせに嫌がらせしたりはしないから」
「ローラント様がそんなことするような方だとは思ってません!」
自分がそんなことを考えて返事を躊躇しているのかと思われているようで我慢がならず、ティルダは思わず大きな声で彼の言葉を遮った。
「ありがとう……」
全力で否定されて面食らったローラントは呆気にとられながら礼を言い、それから面映ゆそうにうっすらと頬を染めた。
「あ、あの、私……恋とか愛とか、そういうのよく分からないんです。ローラント様の事は心の底からお慕いしています。でもそれはとても尊敬していると言う意味で、えっと、その……」
自分の気持ちが少しでも正しく彼に伝わるように、彼女は一言ずつ丁寧に言葉を選んだ。選びすぎて言葉が素に戻っているのだが、そこまでは気が回らないらしい。
「でも、おそばにいられなくなるのは、すごくすごく嫌なんです。考えるだけでも辛いです。出来れば……ずっとローラント様のおそばにいたい」
最後は消え入るような声になっていたが、それでも間近にいるローラントには届いた。ティルダは顔を真っ赤にし、耳までピンク色に染めてローラントの言葉を待っている。気分はまるで罪状を告げられる罪人のようだ。
身をこわばらせた彼女を見下ろしながら、ローラントは安心したように、ほっと息をついた。
「良かった。なら問題はないね」
「えっ? ええええ!?」
何が問題ないと言うのか。
いま、恋愛感情はないとはっきり告げた。そして今まで通りの主従関係でいたいとも言った。なのに、彼のこの浮かれようは!?
ティルダは目を丸くして驚いた。
「私は、その……!」
「君に嫌われていないと分かれば充分」
彼はティルダを抱いたまま、もうここに用はないとばかりに立ち上がった。
私室へ帰ろうと言うのだろう、迷うことなく廊下を進む。相変わらず早朝の廊下には人が少ない。
しかし、いないわけではない。
すれ違う者はみな振り返り、遠くを通りかかるものは足を止めて二人を凝視する。皆の視線に耐えられず、ティルダは小柄な体をさらに小さくしている。下ろせと暴れればもっと人目につき、騒ぎが大きくなることを知っている彼女に出来ることと言ったらそのぐらいだった。
彼女を腕に抱いたローラントは、恥じらう姿も可愛らしいとばかりに目を細め、ひとり上機嫌だ。
ふわふわの銀の髪に口づける。
「私のことはゆっくり好きになってくれればいい」
蜜のように甘い声が、優しく囁いた。
ティルダの胸がどきどきと早鐘を打つ。初めてのことに彼女は戸惑い、視線を彷徨わせた。
落ち着け、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせるが、なかなかうまくいかない。
そんな彼女の耳に、今度はときめくと言うより、どきりとする言葉が滑り込んだ。
「ただし、外堀は埋めさせて貰う」
こうして人前で抱っこするのも、外堀を埋める一環なのだろうか、と、混乱する頭の隅で考えた。
「昨日の夕方、突然ふたりで姿を消し、明らかに寝不足な顔で朝帰り。しかも君はぐったりとした様子で私に抱かれている。さて、この状況をみんなはどう解釈してくれるかな。楽しみだ」
貴公子然とした男の腹黒さがまざまざと見えた瞬間だった。
反論する気も失せて、彼女はがくりとうなだれた。
逃げる手立てが思いつかない。そもそも逃げようとする気持ちも起きない。いったい自分はどうしてしまったんだろう。
もしかしたら、今まで敬愛だと思っていたものは恋愛感情だったのかもしれない。いやローラントの振る舞いに混乱して錯覚しているだけかもしれない。自分の心が分からず、ただただ混乱は深まるばかりだ。
「大切にするよ、ティルダ」
その言葉に嘘偽りはない。何年も彼のそばに仕えていたのだから、そのぐらいのことは分かる。
生真面目ゆえに複雑な顔で言葉を濁すティルダを見るローラントの目は優しいが、しかしその奥に鋭い光が見て取れた。何かを思いめぐらしているときの特徴で、ティルダはその鋭利さに軽く身震いした。
おそらく彼は上手く外堀とやらを埋める方法を画策しているのだろう。
蜘蛛の巣に捕まった蝶のような気分だ。
しかし驚いたことに、彼に絡めとられることが決して不快ではない。それどころか胸が熱くざわめいて、まるで自分が喜んでいるような錯覚さえ覚える。
答えが出せないことにうじうじと悩んでいてもきりがない。
彼女は生真面目な侍女らしく、頭を切り替えた。
今日はきっと蜂の巣をつついた大騒ぎになるんだろう。さて、どうやって切り抜けたものかと考え始める。
もとはと言えば自分の勘違いから始まったことだ。逃げるわけにもいかない。
「今日は大変な一日になりそうですね」
「ああ。楽しみだ」
喉の奥で低く笑うローラントの浮かれようは、沈み切ったティルダと正反対だ。
侍女の一大決心は、晴天の霹靂で終わった。
そして、その先は────
最後までお付き合いくださいましてありがとうございました!