残留
死体が運び出されたあとも、ベッドにはまだ一人分残っていた。
枕の中央に、頭の形をした黄ばんだ楕円がある。そこから首ほどの幅で染みが下り、肩のところで左右へ広がって、白かったはずのシーツを焦げ茶色に変えていた。腰のあたりはさらに濃く、何度も何度も同じ場所へ色を重ねたように黒い。乾いた体液の縁が細い輪をつくり、その輪と輪とのあいだに脂の鈍い艶が残っている。皺の谷には茶色いものがこびりつき、白髪が三本、まるでそこから生えているように貼りついていた。
ただ、四隅だけはまだ白かった。
洗い古した綿が細かく毛羽立ち、指で撫でれば、柔らかそうに見えた。
このベッドで、小林一郎は死んだ。
発見まで数日。警察の現場確認を終えた遺体は、前日に運び出されている。
相馬徹はベッドの脇に立ったまま、一度だけ鼻から息を吐いた。防護マスクの内側へ、自分の呼気がぬるく戻ってくる。
「やるか……」
古い三階建てアパートの最上階、外廊下のいちばん奥の部屋だった。玄関から細い廊下が伸び、その突き当たりが六畳の和室になっている。小林はそこへ介護用ベッドを置き、寝室にしていたらしい。
廊下の左手には、もう一つ木製のドアがあった。半分ほど開いていて、その暗がりに本棚の端と、新聞紙を貼った小窓が見える。四畳半もないような小部屋だ。
南向きの窓には、黄ばんだレースのカーテンが半分だけ残っていた。午前の光はそれを通って白く濁り、畳の上へ四角く落ちている。畳は日に焼けて黄色く、家具を動かした跡だけが、そこだけ時間から取り残されたように青白い。
防護マスク越しでも臭いは分かった。
古い畳。埃。長いこと洗っていない寝具の酸っぱい臭い。その奥に、甘ったるく、舌の裏に残るような腐敗臭がある。
ゴミ屋敷ではない。
テレビ台には薄く埃が積もっている。枕元には飲みかけの水と眼鏡。曜日ごとに分けられた薬は途中で途切れ、カレンダーは先月のままだった。衣装ケースの上には、きちんとたたんだ肌着が一組だけ、ぽつんと残っている。
相馬はスマホを出し、部屋全体、ベッド、汚染箇所の順に撮影した。それから防護服の袖口を引き、青いニトリル手袋でシーツの端をつまみ上げた。
固着した部分だけがマットレスへ残った。
もう少し力を加える。
繊維が、乾いた紙を破るような音を立てて裂け、茶黒い薄片がぱらぱらと畳へ落ちた。
相馬は少し顔を近づけた。
下まで染みている。相馬には、見慣れた汚れ方だった。
「寝具一式、廃棄するぞ」
乾いた汚れを舞わせないよう、固着部へ薬剤を吹く。スプレーを腰のホルダーへ戻す。隣はカッター、その先が予備の廃棄袋。見なくても手が届く。
背後で、防護服がしゃり、と擦れた。
同行してきた高橋淳が、和室の入口に立っていた。
相馬より頭ひとつ近く高い。新品に近い防護服はまだ身体になじんでおらず、肩のところが妙に張っている。マスクの紐に押された前髪が、汗で額へ貼りついていた。
新品の防護服の胸で両手を合わせ、高橋は目を閉じていた。
「……何してんの」
高橋が目を閉じたまま、
「黙祷です」
と答えた。
「いいから片すぞ。ただでさえ教えながらだと時間食うんだから」
「でも、なんか入りづらいじゃないですか。お邪魔しますっていうか……こういうところ、勝手に触ったら罰が当たりそうで」
「当たったことねえよ。何百件もやってるけどな」
「そういうもんですか」
「そういうもんだ。ほら、こっち来い」
高橋は写真立ての前でもう一度だけ頭を下げ、それからベッドへ来た。
死に方は違っても、片し方は同じだ。
汚染範囲を見る。湿らせる。剥がす。拭く。残せない物は袋へ入れる。
名前や事情を考え始めると、手が止まる。
「前回も教えたけど、復習な」
相馬は染みの濃い側を自分へ寄せた。汚れた面が外へ出ないよう、内側へ内側へと折り込んでいく。
「うへえ。めちゃ速いっすね」
「次からやらせるからな。見とけよ」
枕。肩。腰。
小林の身体があった形が、折るたびに一つずつ消えていく。
最後に、まだ白い端が表へ出た。
相馬はその白い端も折り込み、厚手の黒い廃棄袋へ押し込んだ。
そして、口を縛る。
「汚れた側を外に出さない。床に擦らない。袋破ったらやり直し」
壁際へ運び、畳の上に置いた。
「……まあ、慣れれば嫌でもできるようになる……ん?」
高橋が廃棄袋を見ていた。
「なんだよ」
「いや……」
高橋は一度まばたきをした。
「今、それ……動きませんでした?」
相馬も見る。
黒い袋は壁際に横たわっている。
結んだ口が少し上を向き、さっき置いた時と同じ格好で、ぴたりと止まっていた。
「中で崩れただけだろ」
「ですよね」
高橋は笑った。
笑ったあと、もう一度袋を見た。




