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溢れる思い カイル視点

視察の最終日。

夕方には、この小さな町を離れる予定だった。


町での用事を終えたカイルは、一人で海岸へ向かっていた。


町の外れにある海岸は静かだった。


穏やかな波の音だけが聞こえる。


砂浜を歩いていると。


少し離れた場所に、一人の女性が座っているのが見えた。


カイルは足を止めた。


――リナ。


昨日、彼女が名乗った名前。


けれど。


カイルには分かっていた。


彼女が誰なのか。


昨日、広場で目が合った瞬間から。


ずっと探し続けていた人だと分かっていた。


ルシア。


本当なら、今すぐ名前を呼びたかった。


駆け寄って、抱きしめたかった。


何年も会えなかった分だけ、その腕の中にいることを確かめたかった。


けれど、できなかった。


彼女が自分から「リナ」と名乗ったのには、理由がある。


それを無視して、自分の想いだけを押しつけたくはなかった。


それに。


もし彼女が今、「リナ」として穏やかに暮らしているのなら。


会いたかった。


けれど。


彼女の幸せを奪ってまで、そばにいたいわけではない。


その矛盾が、胸の奥で静かにぶつかっていた。


カイルは、彼女から少し離れたところまで歩いていく。


そこで。


ルシアが手の中にあるものを見つめていることに気づいた。


夕日の光を受けて、小さなネックレスが淡く光っている。


カイルは、思わず立ち止まった。


見覚えがあった。


昔。


二人で街へ出た時に、カイルが彼女に渡したもの。


あのネックレスだった。


何年も経っている。


それでも。

 

彼女は今も持っていた。


胸の奥が、静かに締めつけられる。


嬉しかった。


けれど同時に。


それを今まで大切に持っていた時間を思う

と、切なさも込み上げてくる。


砂を踏む音に、ルシアが振り返る。


その瞬間。


驚いたように目を見開いた。


カイルの胸にも、懐かしい痛みが走る。


「……リナ」


呼んだのは、昨日聞いた名前だった。


ルシアは動きを止める。


「……どうして、ここに」


「少し散歩をしていたんだ」


「……そうですか」


短い沈黙が流れる。


ルシアはネックレスを握ったまま、立ち上がろうとした。


「帰るところですので」


「そう」


カイルは引き止めなかった。


それでも。


「少しだけ、いい?」


ルシアは戸惑ったようにカイルを見る。


そして、小さく頷いた。


「……はい」


カイルは彼女から少し離れた場所に座った。

隣には座らない。


これ以上近づくことが、彼女の負担になるかもしれないと思った。


二人で海を眺める。


しばらくして。


カイルが静かに口を開いた。


「昔ね」


ルシアの指が、ネックレスを握る力を強める。


「僕がよく行く中庭があったんだ」


彼女は黙って聞いている。


「人がほとんど来ない場所でね。僕はそこで、本を読んでいた」


少しだけ笑う。


「そうしたら、ある日、一人の侍女が来たんだ」


ルシアの視線が、ゆっくりとカイルへ向く。


「最初はすごく緊張してた」


「……」


「僕の顔を見るたびに、何か言わなきゃって思っていたみたいで」


カイルは、当時の彼女を思い出す。


「でも、そのうち何も話さなくても隣に座ってくれるようになった」


波の音が二人の間を流れる。


「僕が本を読んでいる間、ずっとね」


「……」


「静かな時間だった」


カイルは海へ視線を戻した。


「でも、僕は好きだったよ」


何も起こらない時間。


それでも。


あの頃の自分にとっては、確かな幸せだった。


「何も話さなくても」


カイルは小さく息を吐く。


「誰かが隣にいてくれることが」


ルシアの目が揺れた。


「それからね」


カイルは続ける。


「一度、その子と街へ行ったことがある」


ルシアの指が、ネックレスを強く握った。


「小さなお店を見つけて」


「……」


「そこで、ネックレスを買った」


ルシアは顔を伏せる。


「その子に似合うと思ったんだ」


カイルは少し笑う。


「渡した時、すごく驚いてた」


「……」


「でも、嬉しそうだった」


ルシアの肩が小さく震えた。


やがて。


「……きっと」


小さな声が聞こえた。


「きっと、その方は……とても大切にしていたと思います」


カイルは黙って彼女を見る。


涙が一粒、頬を伝っていた。


胸の奥が痛んだ。


ルシアを泣かせたいわけじゃない。


「……そのあと」


カイルが再び口を開く。


「いろいろあった」


ルシアは顔を伏せたまま聞いている。


「僕たちは離れてしまった」


少し間を置いて。


「探したよ。何度も」


ルシアの肩が揺れる。


「でも、見つからなかった」


カイルは海を見つめた。


どれだけ時間が経っても。


どこにいるのか分からなくても。


探すことだけは、やめなかった。


「だから……もう会えないのかもしれないって思った」


それでも。


「諦めたことは、一度もない」


その言葉だけは、迷いなく出た。


「いつか、どこかで会えるって思ってた」


何の根拠もない。


ただ。


そう信じていたかった。


「その子が今、どこにいるのか……ずっと知りたかった」


ルシアの目から、また涙が落ちる。


カイルは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


本当なら。


手を伸ばしたい。


その涙を拭って。


もう一人で泣かなくていいと言いたい。


でも。


ここで自分が踏み込めば。


ようやく手に入れた彼女の今の生活まで壊してしまうかもしれない。


もし彼女が今、幸せなのなら。


その幸せを守るために、自分は何も言わずに去るべきなのかもしれない。


そう思う。


なのに。


目の前にいる彼女を、もう一度置いていくことを考えるだけで。


胸が苦しくなる。


長い間探し続けた。


一度も諦めなかった。


ようやく会えた。


それなのに。


彼女の幸せを願うほど、近づくことが怖くなる。


「……その子ね」


カイルは静かに続けた。


「昔、僕に言ったことがあるんだ」


ルシアの肩がわずかに揺れる。


「自分のせいで、僕が困ることになるのは嫌だって」


ルシアは目を伏せる。


「だから、僕の前からいなくなったんだと思う」


涙が落ちる。


「僕は、ずっとそれが引っかかってた」


カイルは少しだけ笑った。


「僕は、そんなこと頼んだ覚えはないのになって」


ルシアの唇が震える。


「僕がどうするかは、僕が決めたかった」


そして。


「誰かが僕のために、自分を消す必要なんてなかったんだよ」


ルシアは何も答えない。


カイルも、それ以上は言わなかった。


これ以上言えば。


彼女を追い詰めてしまう気がした。


「……でも」


しばらくして、カイルは穏やかに続けた。


「もし、その子が今も元気でいてくれたなら、それだけでいいと思ってた」


「幸せに暮らしているなら、それでいいって」


それは本心だった。


今でも。


そう思っている。


だからこそ。


目の前にいる彼女を連れて帰りたいという気持ちと、彼女の今を守りたいという気持ちが、どうしても折り合わなかった。


やがて。


ルシアが立ち上がる。


「失礼します」


カイルもゆっくり立ち上がった。


「今日で、この町を出るんだ」


ルシアの動きが止まる。


「……そうですか」


「うん」


ルシアはしばらく黙っていた。


そして。


「……お気をつけて」


小さな声だった。


「ありがとう」


カイルは彼女を見つめる。


これで終わる。


そう思った。


ここで何も言わずに別れれば。


彼女は、今の暮らしへ戻っていける。


その方が彼女のためなのかもしれない。


……そう思った。


けれど。


それでも。


最後に一度だけ。


カイルは、ゆっくりと一歩近づいた。


ルシアが顔を上げる。


手を伸ばす。


迷った末に。


そっと、彼女の頭に手を置いた。


ぽん。


昔と変わらない、優しい手つき。


一度だけ撫でる。


それ以上はしない。


「……またね」


そう言って。


カイルは手を離した。


そして、背を向ける。


歩き出す。


一歩。


二歩。


三歩。


――そのとき。


「……カイル様」


足が止まった。 


胸の奥が、大きく揺れる。


ゆっくり振り返る。


そこには。


涙を流しながら、こちらを見つめる彼女がいた。


カイルは何も言えなかった。


嬉しい。


そう思う気持ちは、確かにあった。


けれど。


その涙の理由を、自分の都合のいいようには受け取りたくなかった。


彼女が苦しんでいるのなら。


それ以上、近づいてはいけない。


そう思う。


それでも。


今、確かに呼ばれた。


ずっと聞きたかった名前で。


「……」


カイルは、ただ彼女を見つめる。


何年も探し続けた。


一度も諦めなかった。


そして今。


ようやく、その声を聞いた。


それでも。


彼女の幸せを壊したくないという気持ちは、消えなかった。


夕暮れの海岸に。


二人の間を波の音だけが流れていた。


ルシアの手の中には。


あの日、僕が渡したネックレスが。


今も大切に握られていた。

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