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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十五章:墨の決死隊、経典の巡礼

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第一節:圧縮の聖業、残すべき形

 興慶府こうけいふを脱出した者たちを待っていたのは、慈悲なき砂の海と、それ以上に冷酷な「重量」という名の現実だった。


 王都から辛うじて運び出した木版や経典、行政文書の束は、台車に積めば砂に車輪を阻まれ、駱駝らくだに負わせればその背をたちまちのうちに潰した。背後からはモンゴルの斥候が放つ猟犬のような気配がじわじわと迫っている。


 移動速度を上げるためには、荷を削るしかなかった。


「――割愛する」


 夜の砂丘の窪み、音を立てることも許されない暗がりの中で、アシャの声は凍りついた鉄のように響いた。


 彼の前には、泥と血にまみれた紙束や木簡が分類もされずに積み上がっている。アシャは感情を完全に硬化させ、冷徹な算盤そろばんを弾くかのようにそれらを仕分けていた。


「天水年間から光定年間に至る歳入の台帳、および兵籍簿。これらはすべて破棄。国家という枠組みが解体された以上、これらの数値は維持すべき意味を持たない。ただの無駄な反故ほごだ」


「お待ちください、アシャ殿!」若き学士が声を殺して抗議した。「そこには我が大夏の、兵たちの名が、生きた証が刻まれているのですぞ!」


「だから何だ」


 アシャは視線すら上げず、次の束を手に取った。


「名が残っても、それを紐解くうつわがなければ、ただの墨の染みと同じだ。我らの双肩に載る荷のかさは限られている。感傷に割く容積など一画分もない。今、我々がなさねばならないのは、大夏という精神の『最も純なる骨格』を抜き出すことだ。この文字が世界をどう定義していたかという論理の構造、それだけを残す。これを見ろ」


 アシャが指し示したのは、西夏文字の辞書である『掌中珠しょうちゅうしゅ』と、最古の木版印刷による『大蔵経だいぞうきょう』の主要巻だった。


「この文字の構成規則、そして文字によって記述された最も高度な概念体系――仏法。この二つさえあれば、他のすべてを失っても、後世の人間がこの国のことわりを再び呼び覚ますことができる。だが、この文字の根幹が失われれば、どれほど数万の民の血脈が残ろうとも、大夏は完全にこの世から消滅する。精神の途絶だ。私はそれを防ぐために、今、この手で重要度の低い記述を剪定せんていしている」


 その声音には、悲哀も怒りもなかった。あるのは、ただ一つの目的を完遂するため、他のすべてを無価値として切り捨てる、狂気的なまでの合理主義だった。


 アシャによって「不要」と断じられた紙葉や木簡が、中央の小さな穴におこされた炎へと、次々にくべられていった。


 パチパチ、と小さく爆ぜる音がするたびに、乾燥した砂漠の空気に、墨の焼ける焦げ臭い匂いと龍脳りゅうのうの香りが混ざり合う。それは、ただの物質の燃焼ではなかった。


「ああ……」


 一人の老僧が、砂を掴むようにして身を震わせた。


 炎の光に一瞬だけ浮かび上がったのは、何代にもわたり砂漠の辺境で歌い継がれてきた、名もなき英雄たちの叙事詩の断片だった。西夏文字特有の、あの複雑に絡み合った筆画が、熱によって墨の黒さを一際鮮烈に輝かせたかと思うと、たちまちのうちに巻き上がり、白く脆い灰へと姿を変えていく。


 それは、一つの家系が確かにこの大地で生きて、笑い、泣いたという記憶の皮膚を、刃で一枚一枚剥ぎ取っていくような生理的な痛みを伴っていた。


 水一滴すらないこの極限の砂漠にあって、彼らの喉は乾ききり、唇は裂けて血が滲んでいたが、胸を締め付けるこの喪失感に比べれば、肉体の渇きなど些事さじに過ぎなかった。


「これが、私たちの生きてきた証だったのに。なぜ、これほどまでに無残に捨て去らねばならないのか……」


 若い僧が涙を流し、その涙は地熱を吸った砂に触れる前に蒸発していった。


 彼らが抱きしめている『大蔵経』の木版は、あまりにも重く、角が容赦なく生身の肩に食い込んでいた。食えもしない、命を救いもしない「紙の束」のために、自分たちは故郷を追われ、仲間を失い、いままた自らの歴史を自らの手で焼いている。


 その矛盾の泥濘ぬかるみの中で、彼らは血を吐くような祈りを胸に秘め、ただ文字が灰に変わる様を見つめ続けるしかなかった。


「泣くな。手を動かせ」


 アシャの冷徹な叱咤しったが、彼らの感傷をせき止めた。


「我々が今行っているのは、敗戦の処理ではない。数百年後の人類に向けた、精神の埋設だ」


 アシャは厳選された数冊の経典を、防水のための分厚い羊皮紙の袋へと滑り込ませた。その手つきは、正確無比な職人のそれだった。


「モンゴル軍は完璧にこの国を消去したつもりだろう。だが、我々がこの『掌中珠』という解読の鍵と、大蔵経という最高峰の記述を一組でも隠し通せば、大夏という知性は死なない。数百年後、誰かがこの砂を掘り返し、この文字を目にしたとき、彼らは必ずやこの不気味なほどに複雑な構造に疑問を持つ。なぜこれほどまでの密度で世界を記述せねばならなかったのか、と」


「その問いこそが、我らの理を再起動させる火種となる」


 アシャの瞳には、目の前の炎ではなく、はるか未来の時間が映っていた。


「これは知の戦いだ。我々は物理的な肉体を捨て、文字という形の防壁の中に、大夏のすべてを凝縮して閉じ込める。追手が来る。残りの記録をすべて火に入れろ。灰すらも砂に混ぜて、痕跡を残すな」


 淡々と下される命令の通り、西夏の歴史の大部分は、その夜、誰に看取られることもなく、静かに、そして完全に世界の表舞台から消去された。


 残されたのは、アシャたちが背負う、わずか数個の、しかし恐ろしく高密度な「魂の塊」だけであった。

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