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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十四章:西夏文字の盾、最後の問答

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第五節:最後の問答、盾の完成

 地下道をい抜け、アシャたちが興慶府こうけいふの外縁へと辿り着いたとき、王都を焼き尽くす炎はすでに天をく巨大な松明たいまつと化していた。


 背後から追いかけてくるのは、肉が焼け、崩れ落ちる街の断末魔。だが、アシャの目の前に広がるのは、それらすべてを冷ややかに見下ろす銀色の月光と、無音のゴビ砂漠であった。


 そこで待っていたのは、退路を完全に断ったはずの男――ウイグル出身のモンゴル書記官ビチクチたちを率いる、あの漢人の高官、ちょうであった。


「やはりここから出たか、アシャ殿」


 趙は数騎の軽騎兵を従え、静かに馬を進めた。その手には剣ではなく、点検を終えた帳簿が握られている。


「城内の書庫、寺院、石碑。そのすべてを我が書記班が検分し、仕分けを完了した。今宵をもって、この地上から『大夏たいか』の記録は永久に抹消された。君たちが抱えているその皮袋は、未処理のわずかな異物に過ぎない。それを引き渡せば、君たちの命だけはハーンの慈悲によって保証しよう。無意味な抵抗は、純粋な論理の過ちだ」


 趙の言葉は、冷酷なまでに正しい。物理的な国家という器は粉砕され、その内部に蓄えられた記憶はことごとく消去された。


 だが、アシャは歪んだ笑みを浮かべ、胸元に手を当てた。


「過ちではない、趙殿。これこそが、我が統治の理が備えた『不滅の備え』だ」


 アシャの声が、砂漠の静寂を切り裂く。


「お前たちは城を焼き、紙を灰にした。だが、お前たちのその冷徹な算盤そろばんは、最大の事実を見落としている。――文字とは、ただの紙の上の汚れではない。それを解読し、意味を共有する人間の『脳髄』こそが、真の記録の依り代なのだ。この難解極まる西夏文字を読み、思考できる者が、この世界に一人でも生き残っている限り、我が国家の根元は死んでいない。国とは城ではない。人の脳に宿る記憶の体系こそが国なのだ。どれほど広大な土地を大ハーンが馬のひづめで塗り潰そうとも、この文字が紡ぐ我らの精神の迷宮セキュリティの中にまで、お前たちの平庸な合理が侵入することは、絶対に不可能なのだ」


 それは、世界最強の武力に対する、知性による絶対的な精神的拒絶の宣言であった。


 砂漠の夜風が激しく吹き付け、アシャのボロ布のような衣服を揺らした。

 風は、都の焼け焦げた匂いと、迫り来るモンゴル馬の強烈な汗の臭気を運んでくる。


 アシャの足の指の間には、凍えるように冷たい砂の粒が食い込んでいた。全身の筋肉が恐怖と疲労で悲鳴を上げ、喉はカラカラに乾いて、呼吸をするたびに血の味がする。


 だが、その極限の身体の奥で、懐にある『掌中珠』だけが、驚くほど生々しい「熱」を放っていた。


 それはただの物ではない。先祖たちが砂を噛みながら生き抜き、この大地に刻みつけてきたタングートの命そのものの温もり。その小さな辞書の一文字一文字が、いまアシャの心臓の鼓動と完全に同期し、彼の血の巡りを烈しく加速させていた。


「……行けッ!」


 アシャは背後の僧たちに短く叫んだ。


 彼らは言葉を交わさなかった。舌を抜かれた僧のひとりが、泥と血にまみれた手で、しっかりと経典の詰まった皮袋を背負い直し、月明かりの砂丘の向こうへと音もなく走り出す。


 カサ、カサ, と羊皮紙が擦れ合うかすかな音が、砂漠の風の中に溶けていく。それは滅びゆく帝国の悲鳴ではない。いつか必ず大地に芽吹く、形なき命の胎動の音だった。


 趙は馬上で静止したまま、逃げ去る僧たちの背中と、その前に立ちはだかるアシャを凝視していた。


 いつもなら、一言命じて騎兵に彼らを蹂躙じゅうりんさせるはずだった。しかし、趙の指先は凍りついたように動かなかった。


 アシャの瞳の奥にある、狂気的なまでに冷徹な確信。


 それは、どれほど兵力を投入しても、どれほど精緻な法で世界を縛っても、決して制御しきれない「理解不能な未解決の歪み」に対する、支配者側の本能的な畏怖だった。モンゴルが築こうとしている普遍的な世界体系の中に、決して消化できない「西夏文字」という名の猛毒の呪詛が、永遠に埋め込まれてしまったことを、趙の知性は正確に理解してしまったのだ。


「……ハーンの軍勢は、すべてを灰にするぞ」


 趙の声は、風にかき消されそうなほどにうつろだった。


「灰の下には、次の季節を待つ種が眠るものだ」


 アシャは静かに微笑んだ。その顔には、一国の滅亡を見届ける者の冷徹さと、それを超越した守護者の誇りが宿っていた。


 突如、遠くの城壁が完全に崩壊したのだろう、ドォンと重い地響きが砂漠を揺るがした。

 その衝撃の風が去ったあと、世界には完全な、深い砂の静寂が戻ってきた。


 アシャは、趙たちに背を向け、一歩を踏み出した。

 彼らが追ってこないことを、身体が知っていた。彼らの合理主義は、すでに「実利のない追跡」を無駄な労力と判断したのだ。


 足裏に伝わる砂の冷たさは、じわじわとアシャの生命力を呼び覚ましていく。


 目指すは、先祖たちが文字の手から逃れ、かつて切り拓いたあの「隠れ里の山脈」。かつては文字という支配から逃れるための聖域だったその場所は、いまや文字という魂を、数百年後の未来へと隠し通すための絶対の防壁となる。


 懐の辞書が、彼の歩調に合わせて胸元で静かに躍る。


 国は滅びた。都は灰になった。


 だが、文字は生きて、いまアシャと共に歩いている。


 夜の砂漠の風が、彼の耳元で「まだ終わっていない」と力強くささやいた。大夏の本当の歴史は、今ここから、誰の手にも触れられぬ砂の奥底で、永い潜伏を始めるのだ。

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