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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十四章:西夏文字の盾、最後の問答

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第三節:青き狼の使者、合理の誘惑

 世界を征服する者たちがもたらしたのは、圧倒的な武力だけではなかった。それは、贅肉ぜいにくを一切削ぎ落とした、あまりに冷徹な「機能美」という名の誘惑だった。


 仮幕舎の薄暗がりの中で、アシャはその男と対峙たいじしていた。


 男の名はちょう。かつては漢人の高官でありながら、いまはモンゴルに下り、大ハーンの書記官ビチクチとしてその知性を捧げている男だった。趙のまとう絹の衣服からは、ふわりと上質な香油の甘い匂いが漂ってくる。それは戦火にまみれた興慶府こうけいふにあって、異様なほど清潔で、どこか非現実的な平穏をえさせていた。


 対するアシャの身体からは、焦げた砂の匂いと、何日も洗っていない肌が発する乾いた汗、そして先ほどまでいた広場で浴びた同胞たちの生血の臭気が立ち上っている。


「無駄な頑なさは、身を滅ぼすだけだよ、アシャ殿」


 趙は、よく手入れされた指先で、白磁の器に注がれた馬乳酒を揺らした。その仕草には、大国に滅ぼされゆく辺境の民をあわれむような、しかし決定的な「勝者の余裕」があった。


 アシャは乾ききった喉を鳴らし、懐にある『掌中珠』の硬い感触を確かめた。布越しに伝わるその重みだけが、自分の魂をこの泥の地に繋ぎ止めるいかりだった。


 趙が目の前の机に広げたのは、簡潔な漢字で書かれたモンゴルの新たな法令文書だった。


「ハーンが望まれているのは、世界の『平準化ならし』だ」


 趙の声には、私情が一片も混じっていない。それはただ、最適化された数式を説明するような響きを持っていた。


「漢字を見なさい。あるいはウイグル文字を。これらは簡潔で、広く通じ、何より管理が容易だ。それに比べて、君たちが執着している西夏文字はどうだ。一つの文字を構成するのに、なぜ二十もの無駄な筆画を必要とする? なぜすべての文字に、左右の対称性を拒むような奇怪な構造を組み込んだ? それは効率的な統治を阻害する、ただの『呪い』だ。文字を捨て、漢字という普遍的な体系システムを受け入れれば、大ハーンは君たちの命を保証し、役人としての地位も与えると言っている」


 それは、悪魔のささやきというよりは、極めて真っ当な「計算」の提示だった。


 モンゴルという巨大な装置システムにとって、西夏文字はあまりに複雑で、保守の手間がかかりすぎる異物バグに過ぎない。世界を一元管理するために、無駄な規範コードは消去されるべきであるという、冷徹なまでの合理主義。趙はその巨大な体系の歯車として、淡々とアシャに「自己の白紙化フォーマット」を促していた。


 趙の言葉は、正論としてアシャの脳裏に突き刺さる。

 確かに、西夏文字を捨てて降伏すれば、これ以上の流血は止まる。広場で指を砕かれている学士たちも、水を平穏に飲むことができるだろう。生き永らえること。それは、生物として最も根源的な欲求のはずだった。


 だが、アシャの肉体が、その合理を激しく拒絶していた。


 彼の脳裏をよぎったのは、砂漠の冷たい朝の空気の中、ひたすらに木版を彫り続けていた職人たちの手のひらの、あの分厚い胼胝たこの感触だ。経典を読み上げる僧侶たちの、腹の底から響くあの声。一文字一文字を噛み締めるようにして生きてきた民たちの、血の巡る温もり。


(もし、その文字を捨てて『漢字』という他者の器に魂を移し替えてしまえば、自分たちは生き残ったと言えるのだろうか。それは、ただ息をしているだけの、名前を奪われた家畜と同じではないか)


 アシャの胸の奥で、タングートの泥から生まれた烈しい風のような拒絶が、じわじわと熱を帯びて燃え上がっていった。


 アシャはゆっくりと首を振った。その目は、冷徹な書記官の瞳を真っ向から見据えていた。


「趙殿、あなたが『無駄』と断じたその複雑さこそが、我々のとりでなのだ」


 アシャの言葉が、仮幕舎の重い空気を切り裂く。


「漢字は確かに広く通じる。だがそれは、誰にでも容易に侵入され、書き換えられる平原と同じだ。我が先祖がこの難解な文字を編み上げたのは、まさに他者に容易に解読されぬため――精神の奥底に『他者が決して踏み込めない迷宮』を築くためだった。文字の画数が多いのは、そこに一国を支えるだけの緻密な論理体系が、何重もの防壁セキュリティとして埋め込まれているからだ。これがある限り、どれほど大軍が大地を蹂躙じゅうりんしようとも、我が民族の思考そのものを支配することは叶わない」


 趙の眉が、わずかに動いた。


 アシャが言っているのは、軍事的な抵抗ではなく、情報上の永久抗戦だった。


 物理的な肉体が滅びようとも、この複雑な文字の論理を脳裏に宿した人間が一人でも生き残れば、モンゴルはその「中身」を完全に消化しきることができない。世界を一つの単純な体系システムで塗り潰そうとする大ハーンの巨大な胃袋に対し、彼らは解読不能なまま、その最奥に残り続けるのだ。


「普遍という名のおりに飼われるくらいなら、我々は文字の迷宮と共に砂に還る」


 普遍という名の平野に、自分たちの認知構造を明け渡すことへの、狂気的なまでの拒絶。アシャの瞳の奥に宿るその冷徹な熱線に、勝者であったはずの趙の背筋を、確かな戦慄が駆け抜けた。


 趙はため息をつき、手元の法令文書を静かに閉じた。


 問答は終わった。合理の誘惑を退けたアシャの前には、もう、一切の妥協のない「完全な破壊」という現実だけが待っていた。

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