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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十四章:西夏文字の盾、最後の問答

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第二節:泥に刻む魂、沈黙の叫び

 その一画を、もはや男は指の腹ではなく、剥き出しになった骨の硬さで刻みつけていた。


 興慶府こうけいふの北宮に続く大広場は、家畜のおりを思わせる急造の柵で区切られ、捕らえられた学士や僧侶たちが泥の上に押し込められていた。

 熱い日差しが、彼らの頭上に容赦なく降り注ぐ。喉の渇きはとうに極限を超え、干からびた唇は裂け、呼吸をするたびに肺の奥が焼けるように痛んだ。反逆の意志を削ぐため、彼らの多くはモンゴル兵の手によって舌を切り落とされ、うめき声をあげることすら許されていなかった。


 だが、その沈黙の檻の中で、アシャは異様な熱気を目撃していた。


 衣服は破れ、ほこりと血にまみれた老学士が、いつくばったまま地面にしがみついている。筆も墨もない。老人は、己の右手の指先からしたたる鮮血を、乾いた泥の床に擦りつけていた。

 じ、じ、と生爪が剥がれた指が砂利を引っく嫌な音が、アシャの耳に届く。痛覚など、とうにどこかへ吹き飛んでいるのだろう。老人の目は奇妙に澄み渡り、ただひたすらに、二十画を超える複雑怪奇な西夏文字を泥の上に紡ぎ出していた。


 それは、凄まじい「祈り」だった。

 一文字を刻むたびに、老人の身体からかすかな体温が吸い取られ、文字へと移っていく。水がなければ干からびる肉体。叩かれれば容易に砕ける骨。そんなもろい生き物が、自らがただの肉の塊ではなく、「大夏たいかの人間」として生きてきた証を、その血の文字に封じ込めようとしている。それは、生きんとする獣が放つ、剥き出しの生命の咆哮ほうこうそのものだった。


 柵の外側では、革鎧かわよろいまとったモンゴル兵たちが、その光景をただ無感情に見下ろしていた。

 彼らの目には、泥を血で汚し続けるタングートの民の姿が、恐怖を通り越して「理解不能な狂気」と映っていた。


「――何をしている、あの家畜どもは」

 若い兵士が、忌々《いまいま》しげにあごをしゃくった。

「さあな。呪いでもかけているのだろう。気味の悪い模様だ。何度見ても頭が痛くなる」


 モンゴル兵にとって、文字とは命令を正確に伝えるための道具であり、極力単純であるべきものだった。目の前で狂ったように刻まれている西夏文字――すべての文字に「冠」や「脚」が複雑に絡み合い、どこをどう見ても対称性を拒絶するその構造は、彼らの合理的な脳髄には決して侵入を許さない、不気味な暗号の壁だった。


 兵士の一人が、退屈そうに歩を進め、老学士がたったいま完成させた血の文字を、重い軍靴ぐんかの底で容赦なく踏みにじった。ぐちゅり、と不快な音がして、文字の半分が泥と同化して消える。

 感情的な敵意があるわけではない。ただ、効率的な統治の役に立たない異分子を掃除するかのように、モンゴル兵は淡々と文字を潰していく。


 どれほど執念を込めて世界を記述しようとも、その規範コードを理解しない者にとっては、単なる泥の汚れと変わらない。その絶対的な知の断絶が、広場に濃密な絶望の影を落としていた。


 しかし、文字は消えなかった。

 老人が踏みつけられ、泥の中に倒れ伏したその瞬間、隣にいた若い僧侶が、自らの指を石で打ち砕き、隣の泥地へと手を伸ばした。


「……っ!」

 声にならない、血を吐くような息が漏れる。だが、僧侶の指先は迷わなかった。砕けた骨の破片を泥に突き立て、老人が消された文字を、より深く、より烈しく、泥の中に復元し始めたのだ。


 その狂気は、まるで静かな野火のように、檻の中の民へと次々に伝染していった。

 ある者は血の引いた白い唇で、ある者は折れた足の骨で。誰もが言葉を失われながらも、地面という地面に、自分たちの「魂の形」を刻みつけようと、指を動かし続けている。


 衣服の擦れる音と、爪が石を削る音、そして肉が裂け骨が軋む鈍い音だけが、広場を満たしていく。彼らは文字を刻むことで、死の恐怖を忘れていた。肉体が滅びようとも、この難解な迷宮のような文字が大地に刻まれている限り、自分たちの精神は誰にも征服されない。そう信じる者たちの、強烈な皮膚感覚がそこにはあった。


 アシャは、その光景を震えながら見つめていた。

 モンゴル兵がどれほど足で踏みつけ、馬のひづめ攪拌かくはんしようとも、タングートの民は新しい泥の上に、再び同じ文字を出現させる。消しても、消しても、泥の上には同じ文字が現れる。まるで世界そのものが、その形を忘れることを拒んでいるかのように、不気味な自己増殖を繰り返す。


「これが……我々の生存本能か」

 彼らは戦って勝とうとはしていない。ただ、自分たちの「統治律(OS)」が世界から完全に抹消デリートされることを、その肉体を摩耗させながら拒絶しているのだ。


 モンゴル兵の顔に、初めてかすかな「不快感」が浮かんだ。

 殺しても、舌を抜いても、この奴隷たちの精神の奥底にある「文字」という名の防壁には、どうしても手が届かない。剣を振るえば血が流れ、肉体は滅びるのに、理解できない不気味な模様だけが、自分たちの足元をびっしりと覆い尽くしていく。その光景は、戦場で無数の死体を見るよりも、はるかに彼らの背筋を寒からしめていた。


 風が、乾いた砂を巻き上げて広場を通り抜ける。

 血の匂いと、人間の脂の匂い。アシャは自らの手のひらを見つめ、それを懐の『掌中珠』へと押し当てた。


 泥の上に刻まれる血の叫びは、はかなく消えるかもしれない。だが、この難解な文字に込められた執念がある限り、この国はまだ、本当の意味では死んでいない。


 アシャは、血の文字をなぞり続ける民の姿を脳裏に焼き付け、次の戦い――この狂気を「論理」へと昇華させるための対話――に向けて、静かに歩き出した。

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