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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十二章:万文字の要塞

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第五節:万文字の玉座、墨塗りの帝国

 牙城の最奥、冷たい石床が広がる玉座の間には、巨大な一枚の地図が広げられていた。


 それはかつて宋の皇帝から下賜かしされた、精緻な極彩色の地図ではない。野利仁栄やりじんえいを筆頭とする碩学せきがくたちが、数年の歳月をかけて「再定義」し終えた、大夏の真実の姿――西夏文字だけで綴られた、漆黒の地図であった。


 李元昊りげんこうは玉座に深く腰掛けたまま、その地図を凝視していた。


 彼の指先が、地図上の「興州」をなぞり、そこから四方に伸びる山河を辿たどる。かつて漢字で「賀蘭山」と記されていた場所には、いまや見たこともない複雑な、二十画を超える西夏の記号が牙のように並んでいる。


 それは単なる地名の書き換えではなかった。

 元昊が行ったのは、世界という名の「現実」に対する組織的な略奪である。


 漢字という概念の網で捉えられていた山河から、中華の色彩を剥ぎ取り、自分たちが創り出した論理の檻へと強制的に移し替える。この地図の上で、中華の天命は完全に無力化されていた。


「名を与えることは、支配することだ」


 元昊は低く、独白のようにつぶやいた。


 宋の皇帝がどれほどこの大地を「自国の領土」と主張しようとも、そこに記された文字が一文字も読めぬのであれば、彼らにとってこの地は存在しないも同然だ。情報の断絶。認識の遮断。


 元昊はこの複雑怪奇な万文字によって、大夏という国を世界の普遍ことわりから切り離し、自分だけが全能の神として君臨する「知的絶対圏」を完成させたのだ。


 窓の外、興州の街には深い黄昏たそがれが降りていた。

 街を吹き抜ける風は、もはや砂漠の乾いた匂いだけを運んではこない。どこか粘り気のある、冷たく苦い「墨」の匂いが、風の筋となって路地を駆け抜けていく。


 夕闇に沈む街を見下ろせば、それはもはやかつての活気に満ちたオアシス都市ではなかった。

 あらゆる家の門に、あらゆる商店の看板に、新しく書かれた文字の紙が貼り付けられている。それらは乾ききらない墨の重みを湛え、夕風にあおられて、一斉にパタパタと、不気味な羽搏はばたきのごとき音を立てていた。


 その音は、まるで何万という黒い蝶が、一斉に羽ばたこうとして壁に繋ぎ止められているかのようだった。あるいは、街全体が「文字の皮膚」をまとい、新しい肺で呼吸を始めた獣のうめきにも聞こえる。


 民たちは、その不気味な羽音の中で、自分たちの声が「形」を持ったことに酔いしれ、同時に、その形から一生逃れられないことを本能的に悟っていた。

 彼らの肌は、新しい文字が放つすすの匂いを吸い込み、その響きを骨に刻み込んでいる。もはや彼らの肉体は、中華の言葉を受け付けぬ「大夏の器」へと変質していた。


 元昊は傍らに控えていた仁栄に合図を送った。

 仁栄が恭しく差し出したのは、宋の皇帝へ宛てた一通の書状であった。


 そこには、元昊の皇帝即位の宣言と、宋への臣従を拒否する苛烈な言葉が並んでいる。だが、何より宋の文官たちを震撼しんかんさせるのは、その内容ではなかった。

 書状のすべてが、一分の隙もなく、あの「理解を拒む迷宮」――西夏文字だけで埋め尽くされているという事実だ。


 これは、外交文書ではない。


 中華という文明に対する知的な処刑宣告であった。


「我らを理解せよ」と乞うのではない。「お前たちには決して理解させない」という、絶対的な拒絶。


 宋の使節がこの書状を受け取ったとき、彼らは自分たちが積み上げてきた教養が、ただの無価値な瓦礫がれきと化したことを知るだろう。元昊は文字を盾にし、言葉を剣に代えて、中華の自尊心を根底から切り裂いたのだ。


 興州の夜が、ついに完全に更けた。

 月明かりに照らされた石碑や看板の文字が、銀色に光る墨の筋となって浮かび上がる。


 風が一段と強く吹き抜けると、街中の紙が一斉に激しく身震いした。

 万の紙が夜風に鳴り響くその巨大な音は、もはや前刻までの囁きではない。それは大夏という国そのものが、黒い墨塗りの翼を広げ、古い世界の理を振り切って飛び立とうとする咆哮ほうこうであった。


 元昊は玉座から立ち上がり、その音を聴いた。

 墨の匂いは、いまや血の匂いよりも強く彼の肉体を支配している。


 足元の地図は、暗闇の中で漆黒の海のように広がっていた。そこにはもう、中華の光は届かない。自分たちが創り、自分たちだけが読み解ける、閉ざされた楽土。


「……美しい」


 元昊の呟きが、文字の羽音に飲み込まれていく。


 万文字の要塞は完成した。

 元昊は本気で信じていた。この文字が、過酷な砂漠の民に不滅の誇りを与え、中華の呪縛から彼らを永遠に解放する聖なる防壁であることを。


 しかし、その防壁の内側で、民が誇りという名の檻に閉じ込められ、自分たちの物語以外のすべてを喪失していくディストピアの濁流に呑まれていることに、この誇り高き設計者はまだ気づいていない。


 大夏は、誰にも語らせぬ、自分たちだけの物語を歩み始めた。

 墨で塗り潰された地図の果て、砂漠の夜空に、孤独な、しかしあまりにも烈しい新興帝国の鼓動が響き渡っていた。

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