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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十二章:万文字の要塞

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第四節:檻の中の自由、自由という名の放逐

 興州こうしゅうを包む空気は、もはやかつての砂漠のそれとは異なっていた。

 風が運んでくるのは、乾いた草の匂いや家畜の体臭だけではない。街の隅々にまで浸透した、微かな、しかし逃れようのない「墨」の香りが、人々の肺の奥深くにまで沈殿していた。


 広場の隅で、一人の老いた羊飼いが、戸惑ったように小さな木札を見つめていた。

 彼の指は、幾千の羊の毛を分け、厳しい冬の凍土を掘り起こしてきた、節くれだった「土の指」だ。その指先に、役人が乱暴に墨を塗り、真っ白な紙に押し付けた。


「これが、お前の名前だ。そして、これが、お前が持つ羊の数だ」


 役人が指し示したのは、西夏文字でびっしりと埋め尽くされた台帳だった。そこには、老人の歩んできた年月も、羊たちが鳴らす鈴の音の愛おしさも、砂嵐の夜に祈った切実な思いも刻まれていない。ただ、二十画を超える複雑な「記号の塊」が、彼の人生を四角い枠の中に閉じ込めていた。


 かつて、タングートのおきては「歌」だった。

 風に乗って語り継がれ、焚き火の傍らで血肉に馴染んでいく、形のない自由。だが、いまやその自由は、冷たい紙の上で「記述」という名の鎖に変わった。


 老人は、自分の指に残った墨の汚れを拭おうとして、ふと手を止めた。それは洗っても落ちぬほど深く、彼の皺の間に食い込んでいる。文明という名の重い衣を無理やり着せられたかのような生理的な窮屈さと、それでいて「自分もまた、この立派な国の一部なのだ」という、甘い毒のような誇りが、彼の胸の中で複雑に混じり合っていた。


網目のなかの家畜、美しき檻

 文字の塔の最上階で、野利仁栄やりじんえいは完成したばかりの戸籍台帳を眺めていた。

 彼の目の前にあるのは、ただの紙の束ではない。それは、タングートという巨大な獣を管理し、動かすための「神経系」の設計図であった。


 文字が生まれる前、民は名もなき群れとして荒野を彷徨さまよっていた。国家にとって、彼らは計り知れぬ不確定の霧に過ぎなかった。だが、一文字ずつ、一人ずつにこの複雑怪奇な西夏文字という名の「刻印」を割り振ることで、彼らは初めて、元昊という建築家が統御可能な「大夏の血肉」へと成り下がったのだ。


「……美しい檻だ」


 仁栄は、自嘲気味に呟いた。


 西夏文字は、そのあまりの複雑さゆえに、学ぶ者に「自分は高尚な文明を担っている」という強烈な選民意識を植え付ける。しかし、その意識こそが、彼らを自ら檻の中へと誘う餌であった。


 文字によって「救い」が定義され、「罰」が記述される。ひとたびこの線のことわりに取り込まれれば、民はもはや、自らの頭で考える必要を失う。ただ、紙に記された正解をなぞり、巨大な国家という城壁を構成する一個の石材として機能すれば良いのだ。


 外敵を防ぐための防壁として創られたこの文字は、いまや内なる民を逃さないための「収容所」へと変貌していた。

 外部からは解読不能だが、内部からは一歩も外に出られない。そんな、完璧な孤独を抱えた王国の輪郭が、墨の線によって、刻一刻と強固に固定されていく。


野生の去性、神の目録

 夕暮れが訪れ、興州の街がだいだい色の光に包まれる。

 戦士たちが、新しく支給された「文字入りの守り袋」を誇らしげに掲げ、勝鬨かちどきを上げた。彼らの瞳には、かつて草原を駆けていた頃の、剥き出しの輝きはもうない。代わりに、自分たちが歴史を持つ強者になったという、重厚でどこか硬直した自信が宿っていた。


「ウゥ、ン……」という彼らの低い母音は、文字という器を得て、もはや風に散ることはない。それは石碑に刻まれ、紙に留まり、彼らの骨の中に聖なる音として蓄積されていく。


 だが、ふとした瞬間、街の外に広がる果てしない砂漠の地平を見つめる彼らの横顔には、言いようのない空虚がよぎる。


 文明の履物くつに足を押し込み、文字という名の礼法を身にまとったことで、彼らは風を聴く力を失いつつあった。意味を固定されることは、野生を殺されることでもある。記述された瞬間に、彼らの魂からは、あの名もなき自由の香りが、墨の匂いにかき消されて消えていく。


 李元昊りげんこうは、牙城の玉座に深く腰掛け、闇に沈みゆく街を見下ろしていた。

 彼のてのひらの中には、完成した西夏文字の辞書が置かれている。それは、彼が創り出した「新しい現実」の目録だ。


 この世のあらゆる事象に、中華とは異なる名前を与え、自らの支配下に置く。それは、世界そのものを一度解体し、自らの手で再構築する行為であった。


「民は、自由を手に入れたと思っている」


 元昊は、墨に汚れた自らの指を眺め、冷たく微笑んだ。


「彼らが手に入れたのは、中華という重圧からの放逐であって、真の自由ではない。彼らは宋の皇帝という主人を捨てた代わりに、西夏文字という名の秩序を主人として迎え入れたのだ」


 これほど完璧な統治があるだろうか。

 物理的な暴力を使わずとも、ただ一振りの筆、ただ一滴の墨によって、万民の魂を自らの設計図の中に永久に縛り付けることができるのだ。


 窓の外、夜の風が吹くたびに、街中に貼られた何万という紙が、ささやくような音を立てる。

 それは、大夏という名の檻が、その住人たちを優しく、しかし容赦なく飲み込んでいく音であった。


「この文字がある限り、彼らは永遠に私のものだ」


 元昊の呟きは、誰にも届かぬまま、墨色に染まった興州の闇に溶けていった。

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