第一節:墨の戒厳令、文字の「焚書」
その朝、興州の街から「意味」が剥奪された。
夜明けとともに、街のあちこちで乾いた音が響き始めた。それは剣がぶつかり合う音でも、軍馬の蹄の音でもない。職人たちが木看板を削り落とす鉋の音と、官吏たちが冷徹に布告を読み上げる声だった。
目抜き通りに面した老舗の布屋の主は、呆然と立ち尽くしていた。
兵士たちに突き飛ばされた先で、長年店の顔だった「錦」の文字が刻まれた看板が、無残に路上に放り出されている。職人が振るう鋭い鉋の刃が、慣れ親しんだ漢字の角を容赦なく削り取っていった。
鼻を突いたのは、削りたての生木の、どこか青臭く、湿った匂いだった。それは昨日までの平穏な暮らしが、むき出しの傷口を晒されたような、不吉な香りがした。
やがて削り上げられた平滑な板の上に、新しい墨が注がれる。
新しく書き込まれたのは、タングートの「布」を意味する文字だった。
それは濃密な煤の匂いを放ち、まだ乾ききらぬ墨が陽光を浴びて、毒々しく光っている。漢字であればわずか数画で済むその文字は、二十もの線を複雑に絡み合わせ、まるで板の上に漆黒の蜘蛛がへばりついているかのような、異様な威圧感を持ってそこに鎮座していた。
主は、震える指先でその文字に触れようとして、思いとどまった。指にまとわりつくであろう墨の重みが、自分の人生そのものを塗り潰してしまうような、根源的な恐怖を感じたからだ。
剥ぎ取られる日常、二つの火刑
「本日をもって、大夏国内におけるあらゆる漢字の使用を禁ずる。これに背く者は、天命を汚す賊と見なし、族滅に処す」
官署から放たれた役人たちは、事務的な無表情さを崩さず、家々を回って「文字の狩り」を遂行していった。
公文書や商人の帳簿といった「公」の記録は、焼かれるのではない。より残酷に、あの二十数画の怪物の群れで上書きされ、あるいは漆黒の泥で塗り潰されていった。
一方で、民が隠し持っていた漢字の私信、宋から流れ着いた詩集、先祖の姓名を記した位牌といった「私」の記憶は、広場に集められ、巨大な火刑に処された。燃え盛る炎が中華の知性を灰へと変え、その黒い煤が興州の空を濁らせていく。
昨日まで情報の通り道であった文字が、一瞬にして理解不能な壁へと変貌する。
看板を読み、道を歩き、言葉を交わすという、社会を維持するための最小単位の血脈が、国家の意志によって一方的に切断されたのだ。
民たちは、自分が昨日まで住んでいた街の中で、突如として「盲目」になった自分を見出していた。
見慣れた通りの角に立つ石碑も、薬局の棚の札も、すべてが呪詛の列のような、見たこともない複雑な記号に埋め尽くされている。それは情報の伝達を目的とした記号ではなく、侵入者を拒むために設計された、知的な要塞の銃眼であった。
重すぎる名、黒き獣の脱皮
広場の一角で、一人の老人が道端に座り込み、手にした小さな木札を見つめていた。
それは孫の名前が漢字で記された、肌身離さず持っていたお守りだった。だが、先ほど役人に取り上げられ、その上から乱暴に「新しい文字」で名前を上書きされて戻ってきたのだ。
「……これが、お前の名だというのか」
老人の掠れた声が、砂混じりの風に消える。
新しく書かれた文字は、画数が多すぎて、小さな木札の枠から溢れ出しそうだった。それはあまりにも重く、あまりにも刺々しい。かつての流麗な文字が持っていた温かみは消え失せ、代わりに、冷たい岩肌に刻まれた傷跡のような、拒絶の感触だけが指先に残る。
老人は、その新しい文字を自分の肌に馴染ませようと何度もなぞったが、どうしても指が弾かれるような感覚を覚えた。それは、自分たちが千年かけて慣れ親しんってきた「知」という衣を生きたまま剥ぎ取られ、代わりに硬く、重い、鉄の鎧を無理やり着せられたような、生理的な不快感であった。
牙城の最上階から、李元昊は変貌していく街を見下ろしていた。
眼下には、一夜にして「黒い霧」に覆われたかのような興州の街が広がっている。
看板という看板、旗という旗が、西夏文字という名の漆黒の迷宮に染め上げられている。その視覚的な密度は、遠目に見れば、街全体が巨大な黒い鱗を持つ怪物へと脱皮したかのようであった。
「見よ、仁栄。これで大宋の息の根は止まった」
元昊の唇には、氷のような満足感が浮かんでいた。
彼が創り出したのは、ただの文字ではない。知の非対称性という名の、不可視の国境線である。
自分たちは敵の言葉を読み、その思考を透視できる。だが、敵がこちらを覗こうとすれば、この万文字の迷宮に視神経を焼かれ、一歩も中へは踏み込めない。
漢字という「色彩」を剥奪された民は、もはや中華という太陽を見上げることはできない。彼らは今、この複雑怪奇な文字の檻の中に、永久に閉じ込められたのだ。自国の文字を持つという誇りと引き換えに、彼らは元昊という設計者が創り出した、外界から遮絶された宇宙の住人となった。
風が吹き抜け、街中に新しく貼られた何万という布と紙が、一斉にパタパタと、不気味な羽搏きのごとき音を立てて震えた。
それは、大夏という名の巨獣が、初めて自らの意志で呼吸を始めた音であった。
墨の匂いはますます濃くなり、黄砂の空へと立ち上っていく。
元昊は、黒く染まった自らの指を愛おしげに見つめ、静かに呟いた。
「ここから先は、我らだけの時間だ」




