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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十二章:万文字の要塞

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第一節:墨の戒厳令、文字の「焚書」

 その朝、興州こうしゅうの街から「意味」が剥奪された。

 夜明けとともに、街のあちこちで乾いた音が響き始めた。それは剣がぶつかり合う音でも、軍馬のひづめの音でもない。職人たちが木看板を削り落とすかんなの音と、官吏たちが冷徹に布告を読み上げる声だった。


 目抜き通りに面した老舗の布屋のあるじは、呆然と立ち尽くしていた。

 兵士たちに突き飛ばされた先で、長年店の顔だった「錦」の文字が刻まれた看板が、無残に路上に放り出されている。職人が振るう鋭い鉋の刃が、慣れ親しんだ漢字の角を容赦なく削り取っていった。


 鼻を突いたのは、削りたての生木の、どこか青臭く、湿った匂いだった。それは昨日までの平穏な暮らしが、むき出しの傷口をさらされたような、不吉な香りがした。


 やがて削り上げられた平滑な板の上に、新しい墨が注がれる。

 新しく書き込まれたのは、タングートの「布」を意味する文字だった。

 それは濃密なすすの匂いを放ち、まだ乾ききらぬ墨が陽光を浴びて、毒々しく光っている。漢字であればわずか数画で済むその文字は、二十もの線を複雑に絡み合わせ、まるで板の上に漆黒の蜘蛛くもがへばりついているかのような、異様な威圧感を持ってそこに鎮座していた。


 主は、震える指先でその文字に触れようとして、思いとどまった。指にまとわりつくであろう墨の重みが、自分の人生そのものを塗り潰してしまうような、根源的な恐怖を感じたからだ。


剥ぎ取られる日常、二つの火刑

「本日をもって、大夏国内におけるあらゆる漢字の使用を禁ずる。これに背く者は、天命を汚す賊と見なし、族滅に処す」


 官署から放たれた役人たちは、事務的な無表情さを崩さず、家々を回って「文字の狩り」を遂行していった。

 公文書や商人の帳簿といった「公」の記録は、焼かれるのではない。より残酷に、あの二十数画の怪物の群れで上書きされ、あるいは漆黒の泥で塗り潰されていった。


 一方で、民が隠し持っていた漢字の私信、宋から流れ着いた詩集、先祖の姓名を記した位牌といった「私」の記憶は、広場に集められ、巨大な火刑に処された。燃え盛る炎が中華の知性を灰へと変え、その黒い煤が興州の空を濁らせていく。


 昨日まで情報の通り道であった文字が、一瞬にして理解不能な壁へと変貌する。

 看板を読み、道を歩き、言葉を交わすという、社会を維持するための最小単位の血脈が、国家の意志によって一方的に切断されたのだ。


 民たちは、自分が昨日まで住んでいた街の中で、突如として「盲目」になった自分を見出していた。

 見慣れた通りの角に立つ石碑も、薬局の棚の札も、すべてが呪詛じゅその列のような、見たこともない複雑な記号に埋め尽くされている。それは情報の伝達を目的とした記号ではなく、侵入者を拒むために設計された、知的な要塞の銃眼であった。


重すぎる名、黒き獣の脱皮

 広場の一角で、一人の老人が道端に座り込み、手にした小さな木札を見つめていた。

 それは孫の名前が漢字で記された、肌身離さず持っていたお守りだった。だが、先ほど役人に取り上げられ、その上から乱暴に「新しい文字」で名前を上書きされて戻ってきたのだ。


「……これが、お前の名だというのか」


 老人のかすれた声が、砂混じりの風に消える。

 新しく書かれた文字は、画数が多すぎて、小さな木札の枠からあふれ出しそうだった。それはあまりにも重く、あまりにも刺々しい。かつての流麗な文字が持っていた温かみは消え失せ、代わりに、冷たい岩肌に刻まれた傷跡のような、拒絶の感触だけが指先に残る。


 老人は、その新しい文字を自分の肌に馴染ませようと何度もなぞったが、どうしても指が弾かれるような感覚を覚えた。それは、自分たちが千年かけて慣れ親しんってきた「知」という衣を生きたまま剥ぎ取られ、代わりに硬く、重い、鉄の鎧を無理やり着せられたような、生理的な不快感であった。


 牙城の最上階から、李元昊りげんこうは変貌していく街を見下ろしていた。

 眼下には、一夜にして「黒い霧」に覆われたかのような興州の街が広がっている。

 看板という看板、旗という旗が、西夏文字という名の漆黒の迷宮に染め上げられている。その視覚的な密度は、遠目に見れば、街全体が巨大な黒いうろこを持つ怪物へと脱皮したかのようであった。


「見よ、仁栄。これで大宋の息の根は止まった」


 元昊の唇には、氷のような満足感が浮かんでいた。

 彼が創り出したのは、ただの文字ではない。知の非対称性という名の、不可視の国境線である。

 自分たちは敵の言葉を読み、その思考を透視できる。だが、敵がこちらを覗こうとすれば、この万文字の迷宮に視神経を焼かれ、一歩も中へは踏み込めない。


 漢字という「色彩」を剥奪された民は、もはや中華という太陽を見上げることはできない。彼らは今、この複雑怪奇な文字の檻の中に、永久に閉じ込められたのだ。自国の文字を持つという誇りと引き換えに、彼らは元昊という設計者が創り出した、外界から遮絶された宇宙の住人となった。


 風が吹き抜け、街中に新しく貼られた何万という布と紙が、一斉にパタパタと、不気味な羽搏はばたきのごとき音を立てて震えた。


 それは、大夏という名の巨獣が、初めて自らの意志で呼吸を始めた音であった。


 墨の匂いはますます濃くなり、黄砂の空へと立ち上っていく。

 元昊は、黒く染まった自らの指を愛おしげに見つめ、静かにつぶやいた。


「ここから先は、我らだけの時間だ」

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