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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十一章:黄金の翻訳、仏(ほとけ)のタングート

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第五節:骨に刻まれる聖(ひじり)の音

 興州こうしゅうの広場を埋め尽くしたのは、熱狂でもなければ、歓喜でもなかった。

 それは、大地そのものが低く唸るような、あるいは数万の肺が同時に「帰るべき場所」を見つけたときに漏らす、深い溜息の奔流であった。


 広場の中央、強い日差しを浴びて屹立するのは、刻まれたばかりの巨大な石碑だった。そこには、漢字に似て非なる、あの漆黒の「迷宮」――西夏文字が、隙間なく、あるいは傲然ごうぜんと刻み込まれていた。


 石碑の前に集まった民の群れの中に、一人の老いた戦士がいた。

 彼の指は長年の戦で節くれ立ち、肌は砂漠の熱風に焼かれて亀裂の走る岩のようだった。彼は文字を読めない。だが、訳経院から派遣された僧たちが、その石碑に刻まれた「音」を解き放った瞬間に、彼の全身の毛穴が逆立った。


「――ウゥ、ン、ザァ……」


 僧たちの喉から絞り出される、重く、粘り気のある低音。それは、かつて汴京べんけいの役人たちが「蛮族の唸り声」とさげすんだ、彼ら自身の母語であった。


 しかし、その音が仏の教えとして響いたとき、老戦士の骨の髄に、見たこともない風景が広がった。

 それは、優雅な蓮の花が咲く池ではなく、荒れ狂う砂嵐の中に立つ一本の巨木であり、冷たい月明かりに照らされた果てしない地平であった。自分たちが生き、死に、血を流してきたこの過酷な大地そのものが、仏の慈悲に包まれている。


 老戦士は震える手で、石碑に刻まれた複雑な線をなぞった。指先に伝わる石の冷たさと、掘り込まれた溝の深さ。そのざらついた感触が、彼の肌を吸い込み、馴染んでいく。


「これは、俺たちの声だ……」


 彼らの血の中に眠っていた「野性」が、初めて文字という名の「形」を与えられ、聖なる祈りへと昇華された瞬間だった。目からは熱い涙が溢れ、砂塵にまみれた頬を黒く汚していった。


記述の要塞、記憶の剥離

 李元昊りげんこうは、牙城の高い回廊から、その「家畜の群れ」が自ら新しいおりへ歩み入り、それを救済として抱擁する様を静かに見下ろしていた。

 彼の瞳には、感傷など微塵もない。あるのは、設計図通りに新たな規格が浸透し、精神の組み換えが完了したことを確認する、冷徹な工学者としての満足感だけだった。


 民が文字の重厚さに涙し、その響きに魂を震わせているのは、計算済みの「生理現象」に過ぎない。重要なのは、この瞬間を境に、彼らの脳内から「中華」という名の色彩が、永久に剥落し始めたという事実だった。


「仁栄。見よ、奴らの目が変わる」


 傍らに立つ野利仁栄やりじんえいもまた、その変化を読み取っていた。

 漢字によって「文明」を定義されていた頃の民は、常に宋という太陽を見上げる、影の存在だった。だが、自らの文字で「天」を書き、自らの音で「救い」を定義した今、彼らの思考の回路は完全に大夏のシステムへと換装フォーマットされたのだ。


 漢字を解さぬことは、かつては「無知」という名の弱点だった。しかしこれからは、それが「不可侵」という名の最強の防壁ファイアウォールとなる。

 情報を共有しない、論理を共有しない、神すらも共有しない。


 この広場に満ちる読経の音は、宋の皇帝には決して解読できない「情報のノイズ」であり、大夏の民にとっては自分たちを繋ぎ止める「絶対の鎖」となる。


 街のあちこちでは、静かに、しかし決定的な「剥離」が始まっていた。

 新しく公布された「漢字使用の禁止」の触れに応じ、民は昨日まで商売に使っていた木看板の漢字を、小刀や斧で狂ったように削り落とした。その白く剥き出しになった看板の傷跡へ、彼らは震える手で、あの大蛇のような西夏文字を「新しい皮膚」として焼き付けるように刻み込んでいった。


 家々からは漢語の古い書物や、宋から密輸された美しい経典が自発的に差し出され、広場の中央で巨大な火刑に処された。燃え盛る炎は、中華の知性を灰へと変え、その黒い煤が興州の空を濁らせていく。そこには、外部の理から永久に遮断されることを自ら望むような、妄信的で倒錯的な熱気が満ちていた。


絶縁の咆哮

 興州の街が、呼吸を始めている。

 それは、洗練された都の優雅な息遣いではない。肺の奥まで砂と墨の匂いを吸い込み、喉の奥の筋肉を鳴らして吐き出す、獰猛な獣の呼吸だ。


 僧たちの読経は、夜の風に乗って遠く賀蘭山の岩肌にまで届き、山々に眠る精霊たちに、新しい主の誕生を告げていた。

 墨はもはや紙の上にあるのではない。それは民の血の中に溶け込み、彼らの骨を黒く染め、大夏という国の輪郭を、誰にも侵せぬほど太く、重く、描き出し始めていた。


 元昊は、最後の灯火を消すように、回廊の闇へと身を引いた。

 彼の背後で、仁栄が最後の一文字を――自分たちの勝利を記述するための、あの平均二十五画の「怪物」を、宙に指でなぞった。


「中華という光を失い、我らは闇を手に入れた」


 仁栄のつぶやきに、元昊は応えなかった。


 文字という名の巨大な要塞が、ついに興州を包み込んだ。

 外部の者は、この街で交わされる言葉の一片すら理解できず、内部の者は、この迷宮の外にあることわりを忘れていく。


 孤立こそが、力。

 断絶こそが、自由。


 骨に刻まれた聖なる音は、救済の調べなどではない。

 それは、大夏という名の独立した「種」が、世界に対して放った、最初の、そして最後となる「絶縁の咆哮」であった。

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