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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第七章:三極の均衡、砂の外交

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第二節:三極の幾何学、砂上の盤面

 深夜の幕舎。外では凍てつくような砂漠の風が、硬い布を激しく叩き、飢えた獣の咆哮のような音を立てている。

 中央には、木枠で囲われた巨大な「砂盤」が置かれていた。それは中華の文官たちが愛好する、墨線の美しい紙の地図ではない。実際に砂漠から運ばれてきた乾いた砂を敷き詰め、高低を盛り上げた、質量と湿り気を持つ「生きた土台」であった。


 李元昊りげんこうはその盤面の前にうずくまっていた。剃り上げられた彼の頭皮は、幕舎のわずかな空気の停滞、そして遠くから迫る気圧の揺らぎを、不可視の手触りのように克明に捉えていた。


地形という名の臓器

 傍らに控える軍師・野利仁栄やりじんえいが、節くれだった指で砂をなぞった。彼が指を動かすたびに、砂の斜面が自重で崩れ、微かな音を立てて新しい「道」が生まれる。


「王よ。ここがヘラン(賀蘭)山脈の背骨にございます。この砂の湿り気をご覧ください。今年は雪解けが遅く、底が緩んでいる。重装の宋軍がこの谷へ踏み込めば、彼らは自らの鎧の重みによって、泥の底へと引き摺り込まれることでしょう」


 元昊は黙って砂盤を見つめた。彼の目は、砂の粒子の粗さ、色の微かな違いから、その土地が持つ「性質」を読み取っていた。

 紙の地図は嘘をつく。境界線を引き、地名を記した瞬間に、その土地が持つ生々しい呼吸を殺し、平坦な「記録」へと変えてしまうからだ。だが砂盤は違う。指を入れれば崩れ、風が吹けば形を変える。重力と摩擦が支配するこの流動性こそが、現実の正体なのだ。


 彼は自らの剥き出しの地肌をなぞった。髪を捨てたことで、彼の五感は皮膚の表面までせり出している。

「……空気の重さが変わったな。三日後、この谷を黒嵐カラ・ブーランが抜ける。宋軍の視界は、彼らが崇める墨汁よりも暗く塗り潰されることになるだろう」


 地形は外側から眺める情報ではない。それは自らの身体の一部であり、利用すべき「巨大な臓器」であった。


三足の理、死の均衡

 仁栄は三つの黒い石を取り出し、砂盤の上に置いた。

 南に宋。北に遼。そしてその間に挟まれた、まだ形を持たぬ「大夏たいか」の空白。


「宋は肥大した巨大な腐肉です」

 仁栄の声は、冷徹な外科医の執刀のように淡々としていた。

「富はあるが、それを支える『芯柱しんばしら』が欠落している。文官が武官を鎖で繋ぎ、前線の決断を千里彼方の都から指図する。それは、脳が手足の痛みを理解せぬまま、踊りを強要しているようなものです。構造が巨大ゆえに慣性は大きいですが、一度その重さがあだとなれば、自らの重みで瓦解するのも早い」


「対する遼はどうだ」


「遼は鋭い爪を持つ野獣ですが、その内側には中華の毒が回り始めています。定住民の理(漢字)を受け入れたことで、彼らの純粋な暴力性は官僚機構というよどみの中に埋没しつつある。北の武力も、いまや礼法という名の錆びた檻に囚われているのです」


 元昊は、三つの石が作る「三角形」を静かに観察した。

「我らは『辺境』ではない」

 彼の言葉は、既存の中華中心的な世界観に対する、冷酷な否定であった。

「宋と遼。この二つの巨大な質量の間に、絶対的な不協和音を叩き込む。我らが支点となることで、彼らが保っている見せかけの均衡を崩し、共食いさせるのだ。均衡とは、維持するためにあるのではない。我らが望む形に崩すためにこそ、設計するものだ」


 それは、国家を一つの機能的な「装置」として建築する、悪魔的なる設計思想であった。


記述システムへの飢餓

 元昊は、砂盤の中央に置かれた「夏」を象徴する石を、力強く指で押し込んだ。砂が弾け、周囲の二つの石が不安定に揺れる。


「仁栄。宋の使者は、言葉の刃で切り裂いた。奴らは今頃、恐怖と怒りで視界を濁らせているだろう。怒りは冷静な判断を狂わせる。連中は必ず、自らの『正しさ』を証明するために、大軍をこの砂の海へ送り込んでくる」


 元昊の口角が吊り上がる。彼の内側で、捕食の悦びが再燃していた。剃り上げた頭皮が、幕舎に忍び込む砂漠の冷気を吸い込んで心地よく引き締まる。


「奴らを砂に沈め、その屍を基礎いしずえとして、我らの国を築く。宋の富と、遼の武。その両方を、我らタングートの血肉へと変換するのだ」


 仁栄は、王の放つ熱にてられたように、自らの手を強く握り締めた。

「しかし、王よ。この盤面を支え続けるには、力だけでは足りません。戦に勝った後、その勝利を歴史に刻む『定着剤』がなければ、我らの功績もまた、風に吹かれる砂のように消えてしまう」


 砂盤の上に散らばった砂の粒子。それは刻一刻と形を変え、元昊の勝利を予感させている。だが、その形を石のように「永遠に固定する術」を、彼らはまだ持っていない。


「文字、か」

 元昊は砂を握り締めた。指の間から、さらさらと黄金の粒が零れ落ちる。

「砂上の盤面は、常に書き換えられる。だが、石に刻んだ言葉は、千年の後もその場に留まる。仁栄、私はこの砂漠の理を、誰にも書き換えられぬ『永遠の刻印』として固定したい。我らの地肌に刻まれるべき、独自の言葉が必要だ」


 元昊の視線は、砂盤を通り越し、漆黒の闇が広がる幕舎の外へと向けられた。

「まずは戦え。宋の重装歩兵を、この砂の底へ引き摺り下ろせ。奴らが信奉する『文明の重み』が、いかにこの地では脆弱な飾りであるかを、彼らの肉体に叩き込んでやるのだ」


 彼は砂盤を一気に掻き消した。完璧に設計された幾何学の図形が、無秩序な砂の山へと戻る。だが、その混沌の中にこそ、次なる「大夏」の輪郭が潜んでいることを、彼は確信していた。

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