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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第七章:三極の均衡、砂の外交

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第一節:墨の戦場、言葉の刃

 興州こうしゅうの謁見の間に漂う空気は、そうの都・開封かいほうのそれとは、似ても似つかぬものに変貌していた。

 かつて父・徳明がこの座にいた頃、この部屋は漢人のこうが焚かれ、宋の礼法を模した、いわば「洗練された辺境」であった。だがいま、そこに満ちているのは、陽光に焼かれた乾いた砂の匂いと、獣の毛皮をなめした剥き出しの熱気である。


 宋の詰問使きつもんしとして遣わされた文官・余靖よせいは、広間に入った瞬間、喉の奥が引きれるような感覚を覚えた。


絹の香りと獅子の熱

 余靖の肌を包むのは、最高級の蘇州絹の衣だ。それは文官としての品位を保つ盾であり、中華という「ことわり」の体現でもあった。だが、この部屋を支配する圧倒的な乾燥の前では、その繊細な絹さえも、主の喉を締め上げる不快な包帯のように感じられた。


 正面に座す男を見た瞬間、余靖の呼吸が止まった。

 李元昊りげんこう。かつて「美しい麟児」と噂された青年の姿は、そこにはない。

 視界に飛び込んできたのは、剃り上げられ、青白く鈍い光を放つその頭部だ。剥き出しの頭皮には、浮き上がった血管が毒蛇のように拍動し、赤銅色の肌からは、砂漠を何十里も駆けてきた男だけが放つ、猛々しい熱が立ち昇っていた。


 元昊は、ただ座っている。

 だが、その静止は死物ではなく、獲物を前にした獅子の「跳躍の寸前」の静止だ。


「……詰問使、余靖であるな」


 声が物理的な圧力となって余靖の胸を叩いた。元昊が身じろぎするたび、剥き出しになった首筋の筋肉が鋼の鎖のようにきしむ。部屋の隅には空気を冷やすための巨大な氷が置かれていたが、それが溶け、水滴が床に落ちる「ぴちょん」という音が、余靖には己の処刑を待つ水時計の刻みのように響いた。


文明の呪い、野生の拒絶

 余靖は震える膝を突き、宋の皇帝から託された国書を掲げた。恐怖はあった。だがそれ以上に、目の前の「異形」に対する、文明人特有の根深い嫌悪と憐れみが彼の背筋を支えていた。


「李元昊……。貴公は宋の臣でありながら、朝貢を怠り、さらにその身なり、その振る舞い。これは明らかに、天朝が築き上げた『秩序の網』に対する明白な反逆である。父母より受けた身体を損なうその禿髪とくはつ、直ちに改めよ。さもなくば、理を逸した獣として、天の裁きを受けることになろうぞ」


 余靖の言葉は、完璧な中華の論理に基づいていた。天の理に従い、位階のピラミッドの中に留まることこそが「人間」である条件なのだ。だが、元昊はその重厚な論理を、耳障りな羽音を払うように一蹴した。


「『理』か。貴様たちのいう理とは、墨を使い、紙の上に並べた文字の羅列に過ぎん」


 元昊の唇が、冷酷な弧を描く。


「宋の描く絵図は美しい。だが、あまりにも線を細く、白く描きすぎた。我らタングートの渇きを癒やすには、その言葉はあまりにも味が薄いのだ。貴様が手に持っているその紙切れに何が書かれていようと、私の肌はその『音』を拒絶している」


「何を……! この国書は、皇帝陛下の御意志。世界の形そのものであるぞ! 髪を捨て、言葉を捨てて、貴公はどこへ堕ちようというのか!」


 元昊はゆっくりと立ち上がった。その瞬間、数千年の洗練が作り上げた「儀礼の壁」が粉砕された。彼は使者の前まで無造作に歩み寄り、腰の短刀を抜いた。


鉄と紙の断絶

 短刀が鞘を離れる「シュリ」という乾いた音が響いた。余靖は恐怖のあまり、腰が抜けたようにくずおれた。だが、元昊が斬ったのは余靖の首ではなかった。

 彼が差し出した国書の「封」を、その鋭利な刃先で無造作に切り裂いたのだ。


 宋の官僚たちが練り上げた美辞麗句。中華の権威を象徴する重厚な封印。それらが、砂漠の戦士の無骨な一撃によって、ただの「死んだ植物の繊維」へと成り下がる。切り裂かれた紙の破片が、雪のように床に舞った。


「……読みもせぬのか」


 余靖が喘ぐように問うた。元昊はその紙片を一瞥もせず、ただ剥き出しの頭皮を撫でる風の音を聴いている。


「読む必要はない。その紙には、私をという名のおりに閉じ込めるための呪文しか書かれていないはずだ。貴様たちの文字は、我らの飢えを癒やさず、流す血を吸い取ることもない。ただ、我らを『辺境の蛮族』として記述し、歴史の隅に押し留めるための重石おもしだ」


悪魔的なる記述者の誕生

 元昊は、恐怖と屈辱に凍りつく余靖の瞳を覗き込んだ。


「余靖よ。戻って貴様の主人に伝えろ。李元昊は死んだ。ここにいるのは、大夏たいかの皇帝、ウラハイ(青天の子)であると」


「皇帝だと……!? 狂ったか! 一介の臣下が皇帝を称するなど、この天の配役が許さぬ!」


「天の配役が気に入らぬなら、台本ごと書き換えてやる」


 元昊の笑みは、極めて冷徹な計算に裏打ちされていた。


「宋が私を『賊』と記すなら、私はその筆を折り、記述そのものを飲み込んでやる。嫌なら、その軟弱な筆を置け。そして、本当の戦場に来るがいい。そこでは墨ではなく、血で歴史が書かれることになる」


 外交という名の「言葉の遊戯」は、ここで完全に終わった。元昊は、中華の記述体系から一方的に脱退し、自分自身を「定義不能な暴力」として再定義したのだ。


 余靖は、震えながら紙屑を拾い集めるしかなかった。元昊の禿髪が放つ鈍い輝きは、もはや野蛮の象徴ではなく、既存の文明を内側から食い破る「新しい理」の産声のように見えた。

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