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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第四章:落日の遺言

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第一節:砂楼(さろう)の軋(きし)み、冷たい予兆

 崩壊は、音もなく忍び寄っていた。

 それは、巨大な伽藍がらんの奥底で、一本のはりが湿気に耐えかねて、人知れず繊維を断ち切っていくような、静かな、そして決定的な「腐敗」から始まった。


墨に埋もれる現実

 長安の中枢、尚書省しょうしょしょうの回廊を支配しているのは、微かな紙の擦れる音と、絶え間なく続く筆の走り書きの音だけだった。

 運び込まれる膨大な木簡や紙の束。それらは、かつては国境の「いま」を伝える血の通った報せであったはずだ。しかし、この薄暗い部屋を巡るうちに、それらは生命力を失い、ただの平坦な墨の跡へと変貌していく。


 北方の国境、オルドスで赫連勃勃かくれんぼつぼつが軍勢を動かしている。その報せは、幾人もの役人の手を経るたびに角を削られ、洗練された語彙へと塗り固められていく。


「――北辺、いささかの動揺あり。然れど、天子の威光、これを鎮めるに足る」


 美しく整えられたその行間には、野を焼く炎の熱も、逃げ惑う民の叫びも、一滴の血すらも残っていない。

 前線から三日三晩、馬を乗り潰して駆けつけた伝令が、ひび割れた喉で叫ぶ「敵襲」という生の響きよりも、この部屋では、乾いた紙の上に記された「異状なし」という二文字の方が、重い価値を持っていた。

 

 ヤンは、机上に積み上げられた黄色い紙の山を見つめた。

 ここにいる男たちの目は、もはや窓の外の空を見ることはない。ただ、筆先から滴る墨が、自分たちが作り上げた「記述の迷宮」をいかに整合させるかにのみ注がれている。彼らは、現実の暴力がすぐそこまで爪を立てていることに気づかぬまま、自ら書き上げた文字の殻に守られ、緩やかな窒息を待ち望んでいるかのようだった。


逆流する風、皮膚の覚醒

 ヤンは、肺の奥を白く汚すような紙の埃を避け、独り城壁の頂へと向かった。

 身に纏った豪華な官服は、歩くたびに絹が擦れ、湿り気を帯びた不快な重みが肌にまとわりつく。襟元を緩めると、そこには長安の庭園が放つ甘ったるい花の香りとは、決定的に質の異なる風が吹き抜けていた。


(――来る)


 鼻腔を突いたのは、乾いた砂の粒、そして、その奥に潜む鉄錆のような冷たい匂いだった。

 北のオルドスから吹き下ろす、あの容赦のない銀世界の風。ヤンの首筋に刻まれた刺青が、焼火箸を押し当てられたように烈しくうずき始めた。


 ヤンの肉体は、安寧という名の泥を本能的に拒絶し始めていた。

 絹の衣の下で、かつての戦士の筋肉が、冬眠から覚めた獣のように硬く引き締まっていく。肥え太った同胞たちが、極彩色の食卓で酒に溺れている間も、ヤンの皮膚は空気の密度の微かな変化を、大地の底から伝わる軍馬の微かな地響きを、鋭敏に捉えていた。


 目を閉じれば、視界の端に、荒野を駆ける灰色の影が見える。

 それは秩序も文字も持たぬ、ただ生きるために他を喰らう「暴力」そのものだ。

 文字に守られ、その温もりに甘んじてきた長安の住人たちにとって、それは理解可能な脅威ではない。ただ、逃れようのない「死」という名の現象として、彼らの頭上に降り注ぐだろう。


崩落の予鳴

 遠く、北の空が不気味に濁っていた。

 長安という名の、壮麗な「砂上の楼閣」が、最初の軋みを上げた。


 ヤンは足裏を冷たい石畳に押し付けた。その石の下に眠る「大地」が、目覚めを促すように彼の骨を震わせている。

 彼は、自分を縛り付けていた絹の帯を力任せに引き抜くと、闇の奥に隠された一振りの古びた剣を掴み取った。


 文字に頼り、文字に溺れ、文字に殺されようとしている同胞たちを背に、ヤンは再び「野生の寒気」の中へと、一歩を踏み出そうとしていた。

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