第三節:庭園の廃物
長安の喧騒を離れた一角に、その邸宅はあった。
高く聳える灰色の煉瓦塀は、外敵を拒むためのものではない。内に飼う「獣」が外の風を思い出さぬように設えられた、沈黙の檻であった。
湿った沈黙と、腐りゆく野生
門をくぐった瞬間、肺の奥を突いたのは、草原のそれとは似ても似つかぬ、重く湿った空気だった。
そこには、漢人の庭師が精緻に造り上げた「偽物の自然」が広がっている。風は高い塀に遮られ、逃げ場を失った生ぬるい花の香りと、泥の匂いが足元にまとわりつく。
奥の東屋に、その男はいた。
かつて、一族で最も恐れられ、その咆哮一つで千の馬を震え上がらせたと謳われた猛将、バドゥだ。
だが、そこに座っていたのは、もはやヤンの知るバドゥではなかった。
かつて馬の腹を締め上げ、鋼の隆起を見せていたその脚は、贅肉に埋もれて丸くなり、いまや自らの体重を支えることすら危うい。絹の衣から覗く首筋は、手入れの行き届いた家畜のように白く、脂がのっている。彼は磁器の杯を、壊れものを扱うような、ひどく臆病な手つきで口に運んでいた。
去勢という名の「風雅」
バドゥはヤンの姿を認めると、脂の浮いた顔に、卑屈なまでの柔和な笑みを浮かべた。
「おお、ヤンか。よく来た。いま、ちょうど漢人の詩を諳んじていたところだ」
バドゥは机の上に置かれた一巻の書を、愛おしそうになぞった。それは皇帝から直々に賜ったという、精緻な装丁の詩集であった。
「聴け……『春眠暁を覚えず』。どうだ、この洗練された響きは。我ら部族の、ただ喚くだけの歌とは格が違う」
彼の口から漏れる漢語は、発音がひどく歪だった。草原の乾いた風に乗せるための野太い喉は、繊細な漢音を捉えきれず、まるで死にかけた獣が喉の奥で小石を転がしているような、無残な残響を響かせる。
皇帝がバドゥにこの邸宅を与え、詩を教え、官位を授けたのは、彼の功績を讃えるためではない。彼をこの「風雅」という名の檻に閉じ込め、二度と戦場へ戻れぬようにするためだ。
相手に「自分たちが劣っている」と教え込み、洗練された記号(文字や詩)という餌を与える。それを喜んで受け取った瞬間、バドゥは猛将という「個」を失い、巨大な機構の末端にぶら下がる、ただの「三品官」という番号に成り果てた。この邸宅も詩集も、彼がもはや脅威ではないことを天下に知らしめる、公式な「去勢証明書」に他ならなかった。
もがれた翼の悲哀
「バドゥ殿……。あんた、もう馬には乗らないのか」
ヤンの問いに、バドゥの瞳が一瞬、泳いだ。その瞳の奥には、かつて地平線を見据えていた頃の鋭い光が、泥水に沈んだ金貨のように、微かに、だが絶望的に明滅した。
「馬か……。ふん、あんな埃っぽく、尻の痛む乗り物はもう御免だ。この長安では、牛車の方が遥かに優雅に移動できる」
バドゥはそう言って笑ったが、その声はひどく掠れていた。
彼が纏う沈香の香りの下から、ヤンの鼻は嗅ぎ取っていた。動かぬ肉体が放つ、停滞した生命の腐臭を。大地を駆け、風を斬り、血を燃やしていた頃の生き生きとした「体臭」は、この湿った庭園の沈黙の中に、跡形もなく消え去っていた。
彼は、人工の池に泳ぐ錦鯉を指差した。
「見ろ、ヤン。あの魚は、誰に追われることもなく、ただ与えられた餌を食って生きている。美しいだろう。我らも、ようやくあのように生きられるようになったのだ」
ヤンは池の縁に立つバドゥの背中を見つめた。その広い背中には、かつて見えない風の翼があったはずだった。いまはただ、絹の重みに耐えかねて丸まり、逃げ場のない安寧に押し潰されている。バドゥは、自分が食っている「餌」が、自分たちの誇りを溶かす劇薬であることに、気づかない振りをしているだけなのだ。
埋葬の完了
帰り際、バドゥはヤンに、自分が写経したという経典の一部を押し付けた。
「お前も少しは学問をしろ。文字を知れば、世界はもっと『整理』されて見えるぞ」
受け取った紙の端に、墨の汚れがこびりついていた。それはかつての英雄が、自らの魂を葬り、墓碑銘を刻んだ際の返り血のように見えた。
門の外に出ると、夕暮れの長安が極彩色の光を放っていた。だがヤンには、その都全体が巨大な「庭園」に見えた。バドゥのように牙を抜かれ、太り、自分の言葉を忘れた廃物たちが、整然と並べられた死体安置所だ。
ヤンは石畳を蹴る自分の足音を確認するように、強く歩き出した。
懐にある「白い石」の角が、不格好に膨らんだ贅肉の兆しを拒むように、彼の脇腹を鋭く突いた。その痛みだけが、いま、彼がまだ「家畜」になりきっていないことを証明していた。




