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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第二部 第一章:龍の椅子の軋み

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第四節:砂漠の幻聴

 長安の夜は、生き物の気配を許さない。

 広大な王宮を包み込んでいるのは、静寂というよりは、巨大な石の重みが空気を押し潰したあとに残る、灰色の沈黙であった。回廊の随所に置かれた松明たいまつが、時折パチパチとはぜる音だけが、この死んだような空間で唯一の「鼓動」を刻んでいた。


 ヤンは、重い官服を脱ぎ捨て、薄い寝衣のまま回廊へと出た。足裏に伝わる花崗岩の冷気は、昼間の熱をわずかに吸い込み、逃げ場のない湿り気を帯びている。それが、執務室で一日中、墨の匂いと格闘していたヤンの神経を、逆なでするように刺した。


肉体に刻まれた「熱」

 ヤンは無意識に、自分の右の首筋に触れた。高い襟に押し込められていたその場所には、部族の誇りであり、系譜の証である刺青が刻まれている。指先が触れると、そこだけが周囲の冷たい石の世界とは無関係に、異常な熱を帯びてドク、ドクと波打っていた。


 鼻腔を抜けるのは、松明の樹脂が焼ける刺激臭だ。だが、ヤンの五感は、ここにはないはずの色彩を求めていた。

 ――黄金の砂塵が舞い上がる、あのむせ返るような命の匂い。

 ――馬の体温が蒸気となって立ち上がる、生きるものだけが放つ強烈な芳香。


「……吹いているのか」


 ヤンは目を閉じ、耳を澄ませた。王宮を囲む高い城壁。その狭間を吹き抜ける風が、石の角を削り、屋根の瓦を震わせる。その音はいつしか、ヤンの脳裏に広大なオルドスの砂漠を召喚した。それは単なる風の音ではない。かつて先祖トグが、文字の檻を食い破り、雲の上で上げたという、あの剥き出しの咆哮そのものだった。


骨を打つ不協和音

 そのとき、足元から不気味な音が響いた。


 ――ギ、リ……。


 昼間、謁見の間で聞いた「龍の椅子」の軋みと同じ音だ。

 見上げれば、壮麗を極めた王宮のはりが、月の光を受けて黒々と横たわっている。その巨大な屋根の重みが、土台となる柱を粉砕しようとするかのように、またしても「ギ、ギ……」と低い悲鳴を上げた。


 その音はヤンの奥歯を鋭く疼かせ、耳の奥というよりは、背骨の芯を直接揺さぶった。

 この王宮は、中華という名の巨大な「はた」の雛形なのだ。羌族きょうぞくは武力によってこの地を占領したが、支配を維持しようとした瞬間、彼らは自らこの機の一部となり、織り込まれる糸となった。


 龍の椅子が軋むのは、座る者が王にふさわしくないからではない。羌族という「野生の骨格」を、中華という「冷たい礼制の鋳型いがた」に無理やり押し込めようとしたことで生じた、逃げ場のない悲鳴なのだ。文字によって管理され、記述によって定義されることで、彼らは「何者か」になろうとした。だがその代償として、自分たちを自分たちたらしめていた根源的な自由を、内側から腐らせていったのだ。


牙を抜かれた者たちの共鳴

「……誰だ」


 ヤンが鋭く問いかけると、回廊の陰から一人の老兵が姿を現した。かつてヤンの父と共に戦場を駆けた、古参の戦士だ。彼はヤンの姿を認めると、ぎこちない手つきで漢式の礼を取った。その震える指先は、昼間の若き書記官と同じように、落ちることのない墨の染みに汚れていた。


「将軍。……貴方も、聞こえましたか」


 老兵の瞳は、月明かりの下で、幽霊のように虚ろだった。その眼差しには、もはや戦士の鋭さはなく、同じ檻に閉じ込められた獣を哀れむような、暗く湿った共感だけが宿っていた。


「風の音か。……それとも、王宮の軋みか」


「いえ。……馬の蹄の音です。それも、何万という我らの馬が、ここではないどこかへ向かって駆けていく音が」


 老兵の声は震えていた。彼は、王宮の石畳に耳を押し当て、何かに怯えるように続けた。


「ここでは、何も聞こえない。石が、俺たちの声を吸い込んじまう。将軍、俺たちは……俺たちは、ここで何を待っているのですか。文字を覚え、絹を纏い、ただ太っていくことを待っているのですか」


 ヤンは答えられなかった。老兵が聞いた蹄の音は、幻聴などではない。それは、この巨大な石の胃袋に呑み込まれることを拒絶した、彼らの「本能」が上げている最期の反響だった。


石の沈黙、風の警告

 再び、風が強く吹き抜けた。城壁の狭間を抜ける風の音が、ヤンの耳には、はっきりとした警告となって届いた。


『帰れ。……ここはお前の居場所ではない』


 それは、トグの遺言のようでもあり、あるいは未来から届いた絶望の予感のようでもあった。ヤンは、懐に忍ばせていた一族の「白い石」を握り締めた。黒い墨の海に溺れかけている自分を繋ぎ止める、唯一のいかりのように。


 長安の夜空は、どこまでも高く、無機質な沈黙に満ちている。

 龍の椅子の軋みは、止まらない。それは、この王朝が、その始まりの瞬間から内包していた自壊へのカウントダウンだった。


「……俺たちが失ったのは、領土ではない」


 ヤンは、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 「自分自身」という、決して書き換え不可能な唯一の記述。それを、自分たちはこの石の都に、捧げ物として差し出してしまったのだ。


 夜明けは、まだ遠い。ヤンの耳の奥で、砂漠の幻聴は、いつまでも猛々しく、そして悲しい咆哮を上げ続けていた。

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