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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十章:灰の上の「正義」

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第二節:呂尚の論功行賞

 大邑商だいゆうしょうの王宮は、もはや血を吸う祭壇ではなかった。そこは今、膨大な記録を整理し、世界を新たな枠組みへと嵌め込むための、冷徹な事務局へと変貌していた。


 かつて帝辛(紂王)が座していた高御座たかみくらのほど近く、臨時に設えられた天幕の中で、トグは軍師・呂尚りょしょうと対峙していた。戦場の喧騒は遠のき、代わりに天幕の中を満たしているのは、何十人もの書記官たちが一斉に木簡を削り、筆を走らせる、微細で執拗な音だ。


 ――カリ、カリ、カリ、カリ……。


 その乾いた音は、トグの耳には、未知の害虫が建物の柱を内側から食い荒らしている羽音のように聞こえた。それは、この大地に流れる無形の時間を、鋭い刃で切り刻み、木の棒の中に閉じ込めていく音だった。


文明の静かなる侵略

 呂尚は、机の上に広げられた何本もの木簡を、細長い指で検分していた。その指先からは戦場での返り血が綺麗に拭い去られ、今は死者の影さえ感じさせない。


「……トグ。お前たち羌族きょうぞくの働きは、武王も高く評価しておられる」


 呂尚は顔を上げず、淡々と語り始めた。その声には、慈悲深い師のような温もりと、一切の情を排した執行者の響きが、分かちがたく混ざり合っている。


いんは滅び、古い呪縛は解けた。だが、空白は許されない。世界が崩壊したままでは、人は生きていけぬからな。ゆえに、秩序を書き換える必要がある。……これが、お前たちへの『報い』だ」


 呂尚が示したのは、一本の太い木簡だった。そこには整然と、しかしどこか禍々しささえ感じる緻密な文字が並んでいる。


「東の海に面した肥沃な土地……せいを与える。お前はそこの『王』として、一族を率いてゆくがいい」


「王」という言葉。それはかつてのトグにとって、命を奪う神に等しい暴力の象徴だった。だが今、呂尚が差し出しているその称号は、より巧妙で逃れがたい「契約」という名の網であった。


「王になるということは、周の定めたれいという網の中に組み込まれるということだ。領地を持つということは、その土地の民をとばりに書き入れ、収穫を記録し、周王室への務めを果たすことを意味する。もはや『名もなき民』として山を駆けることは許されない。記録されぬ民は民ではなく、記述されぬ土地は土地ではない。それが、これからの世界のことわりだ」


名前という名のくさび

 トグは、呂尚から差し出された木簡をすぐには受け取らなかった。

 彼の視界の端では、一人の書記官がトグの顔をじっと見つめ、その特徴を、あるいは彼の功績を、黙々と木片に刻みつけている。自分の存在が、一本の木の棒の中に削り込まれていくような、形容しがたい吐き気が背筋を走った。


「……王になれば、俺たちは二度と、狩られることはないんですか」


 トグの声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。天幕の中に立ち込める墨の匂いが、肺の奥まで侵食してくる。


「ああ」


 呂尚は初めて顔を上げ、トグの瞳をまっすぐに見つめた。


「お前たちが『文字』という武器を正しく扱える限りはな。定規の内側にいれば、お前たちは守られる。だが、その線を一歩でも踏み越えれば、お前たちは再び、ただの獲物へと成り下がるだろう。選べ、トグ。家畜として守られるか、野良犬として飢えるか。……いや、『臣民』となるか、『空白』となるかだ」


 呂尚は、傍らに控えていた書記官に合図を送った。書記官が進み出て、トグの前に小さな青銅の印章を置く。


「お前の名は、これからこのしるしの中に宿る。お前が何かを決め、何かを命じるたびに、これを捺せ。お前の魂がどこにあろうと、この印が捺された木簡こそが、世界におけるお前自身だ」


 トグはその青銅の塊に触れてみた。ひやりとして、重い。それは、かつて仲間の血を吸った殷の祭器と同じ、金属の冷たさを持っていた。


 この小さな塊が、自分という人間を定義する。

 彼が空腹を感じること、仲間を愛すること、風の匂いに季節の移ろいを知ること……そんな、指の間をすり抜けていくような、形のない「生の震え」を、この金属の塊はすべて無視し、ただ「斉王」という記号に固定してしまう。トグの掌は、戦いの傷跡で硬くなっている。その掌が、この洗練された文明の道具を拒絶しているのを、彼ははっきりと感じ取っていた。


逃れがたい網の目

「チキは……あいつは、これを受け取ったんですか」


「彼は、賢明な男だ。すでに領地の図面を引き、民をどう配置するかを私と相談している。彼は、一族を飢えさせない道を選んだ」


 呂尚の言葉は、完璧な「正解」だった。かつて彼らが望んだのは、ただ静かに、誰にも脅かされずに生きることだったのだ。呂尚が提示しているのは、その願いを永遠に固着させるための、唯一の冷徹な手段であった。


「……文字がなければ、国は治まらぬ」


 呂尚は、まるで自分自身にも言い聞かせるように、静かに、しかし断固として言った。その背後では、絶え間なく削り節が落ち、新しい木簡が積み上げられていく。


「トグ、お前は文明を呪っている。だが、お前が牧野で殷を倒せたのは、私が授けた戦術……すなわち文字による『ことわり』があったからだ。お前はすでに、文字の味を知っている。それを今さら吐き出すことはできまい」


 トグは天幕の隙間から、外の景色を見た。都の空からは、まだ灰が降り続いていた。その灰は、かつて命として脈動していたものたちが、文字という檻の中で焼かれ、無機質な粉末へと変わった姿だ。


「……考えさせてください」


 トグは、青銅の印章を置いたまま立ち上がった。


「よかろう。だが、時間はあまりない。記述の空白は、すぐに別の誰かによって埋められる。お前が自分を定義しないのであれば、他人がお前を定義することになる。それが、この世の理だ」


 呂尚の背後で、再びカリ、カリ、と木簡を削る音が響き始めた。トグは背中にその鋭い音を浴びながら、逃げるように天幕を後にした。

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