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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十章:灰の上の「正義」

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第三節:失われる「野生」

 周から与えられた「羌族の居住地」は、不気味なほどに凪いでいた。

 かつて彼らが奴隷として詰め込まれていた泥塗れの穴倉ではない。そこには手入れされた石畳が敷かれ、庭には枝ぶりを整えられた木々が並び、微かにこうの匂いさえ漂っている。


 だが、トグがその地を踏みしめるたび、足の裏を襲うのは確かな大地の鼓動ではなかった。それは、剥き出しの命を撥ね退け、平らにならされた石の拒絶だった。


磨かれる「部品」

 トグは、館の一つから出てきたカザンを見て、喉の奥がせり上がるのを感じた。

 牧野ぼくやの決戦で、泥にまみれ、獣のような咆哮を上げて殷の戦車に飛びかかっていったあの勇士。今のカザンは、深い藍色の絹の長衣を纏い、周の貴人に倣ってゆったりとした帯を締めている。


「……カザンか?」


 声をかけると、カザンはゆっくりと振り返った。その動きは、かつて風の動きを察知して瞬時に身を翻したあの敏捷さを失い、まるで重い水の中を歩いているかのように、不自然に「優雅」だった。


「ああ、トグか。見てくれよ、この服を。羊の皮みたいに重くないし、風も通さない。周の連中が、これが『文明』だって教えてくれたんだ」


 カザンは自慢げに袖を撫でた。しかし、トグの目はカザンの「足元」に釘付けになった。

 山の民は、不安定な岩場を掴むために、常に足の指を躍動させ、地を「掴む」ように歩く。だが今のカザンは、平らな石畳の上で、かかとから無造作に地を叩いて歩いていた。

 それは、爪を研ぐ必要を忘れた獣の歩みだった。牙があること自体が「不作法」だと教え込まれ、自ら口を閉ざすことを選んだ者の無防備な足音。カザンの肌からは、雨と土と獣の脂が混じり合ったあの荒々しい匂いが消え、代わりに安価な香料の甘ったるい匂いが漂っている。その香りは、トグの肺を薄い膜で覆い、窒息させるような錯覚を抱かせた。


文字という名の「剪定せんてい

 館の奥からは、子供たちが唱和する声が聞こえてくる。


「『天』。それは王が戴くもの。……『命』。それは王が下すもの」


 かつて山岳で鳥の声を真似、風の音を聴き分けていた子供たちの舌が、今は一本の線で切り分けられた「音」を繰り返している。その声には抑揚がなく、まるで乾いた木片を打ち合わせるような響きしかなかった。

 子供たちの手には、弓ではなく筆が握られている。


 以前の彼らにとって、空は名もなき広がりであり、その時々の光や湿り気で姿を変える「生きた現象」だった。しかし今、彼らの目の前にある木簡の上で、空は『天』という一文字の檻に固定されていた。文字という定規によって、はみ出した豊かな無名性は「余計なもの」として削ぎ落とされていく。


 トグは、自らの首筋にある鎖の跡を強く掻いた。熱い。子供たちが整然とした文字をなぞるたびに、自分の魂までが薄く削られ、周の「網」の一部に作り替えられていくような戦慄を覚えた。


野生への逃走

「トグ、お前もいつまでそんな汚い服を着ているんだ」


 不意に、居住地の中心にある立派な屋敷からチキが姿を現した。彼は羌族のリーダー格として、すでに周の官僚と渡り合うための立ち居振る舞いを身につけていた。


「……チキ。お前、その目はどうした。光ってないんだよ。あの大邑商の火を見ていた時のお前の目は、もっと……」


「トグ、それはもう終わったんだ」


 チキは事務的な微笑を浮かべ、腰に下げられた木簡の束に、愛おしげに触れた。その指先には、もはや戦場での泥も、獲物を捌く血の匂いもない。

「これからは文字を覚え、この都で『意味』のある存在にならねばならない。それが、死んだ仲間たちへの報いだろう?」


 チキにとって、あの戦場での記憶はすでに「整理された記録」となり、その熱量は冷め切った墨の中に閉じ込められてしまったのだ。チキが木簡に触れる音。それは、トグには新しい鎖が締め付けられる音に聞こえた。


 トグは耐えきれなくなり、居住地から走り出した。石畳を叩く自らの足音が、耳障りに響く。

 都の門を目指して走るトグの視界に、灰にまみれた泥道が見えてきた。そこには記述されることを拒み、石畳の隙間から芽を出した名もなき雑草があった。トグはその雑草を力強く踏みしめた。


 ――潰れた草の、青臭く強い匂い。

 その瞬間に、トグの五感は息を吹き返した。


「……俺は、この網の目には収まらない」


 トグは立ち止まり、激しく上下する自らの肺の動きを感じた。文明が用意した「正解」は、あまりにも快適で、あまりにも静かだ。だが、その静寂は、魂が死んでいく音に他ならない。


 トグは、白絹の衣を指が折れるほどの力で握りしめた。

 この美しい檻を脱ぎ捨て、泥と、痛みと、誰にも名付けられない自由が待つ山脈へと帰る日は、もうすぐそこまで来ていた。

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