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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第七章:山岳の嵐、平原を駆ける

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第一節:進軍の対比(コントラスト)

 夜明けの平原を、巨大な「ことわり」の行列が大地を隙間なく覆っていた。

 渭水を越え、中原の心臓部へと突き進む周の軍勢。それはトグの目には、一個の巨大な、そして不気味なほど精緻な「青銅のからくり」に映った。


 数万の歩兵が大地を踏みしめる音は、寸分の狂いもない拍子を刻み、土埃を一定の高さまで舞い上げる。先頭を行く戦車隊の車輪の軋みさえもが、定められた歌の節回しのように響き、平原を強制的に「規則」で塗り替えていく。


 周の主・姫発きはつが掲げる「天命」の旗印。それは、殷の王が用いた呪術的な叫びではない。それは人と人とが結ぶ固い「約束」であり、混沌とした大地に境界線を引き、正しき形を与える「新しい網の目」であった。


「……うっ」

 トグは不意にこみ上げる吐き気をこらえ、口元を拭った。

 周の兵士たちが唱える、低く重厚な唱和コーラス。その「正義」を称える一定の律動が、耳の奥を、そして内臓をじりじりと締め付ける。それは山で風の音を聞き、不規則な獣の鼓動に寄り添って生きてきたトグにとって、命の呼吸を奪う「美しい絞め殺しの糸」に他ならなかった。


規律と野蛮の摩擦

「将軍、あの山犬どもをこれ以上、隊列のそばに置くのは危険です」

 周の重装歩兵を率いる将の一人が、嫌悪感を隠そうともせず、呂尚に向かって吐き捨てた。

「あやつらの体臭、そしてあの落ち着きのない眼光。我が軍の清廉な気を乱します。文字も解さぬ獣は、最後尾で泥でも啜らせておけばよろしい」


 トグはその言葉を、風の噂よりも鋭く聞き取っていた。だが、言い返す言葉を持たない。ただ、隣を走るチキの喉が、押し殺した唸り声を上げているのを感じた。


「放っておけ、チキ。あいつらは、箱の中でしか息ができない魚だ」

 トグは低く告げたが、その指先は微かに震えていた。

 前方、地平線の彼方に蠢く殷の十七万。それは「数」という言葉では捉えきれない、大地を埋め尽くし、森を枯らし尽くす「青銅のイナゴの大群」だった。


 文字を持たぬ彼らにとって、あの圧倒的な質量は、生理的な恐怖として肌を刺す。喉は砂を噛んだように乾き、膝が笑いそうになるのを、トグは自らの爪を掌に食い込ませることで耐えていた。彼らは決して無敵の戦士ではない。巨大な怪物に挑む、飢えた狼の群れに過ぎなかった。


記述を拒む影

 隊列の端を影のように進む羌族の生き残りたち。彼らは「掟の合図」には従わない。風に含まれる土の匂いの変化を感じ、足元で潰れる草の湿り気を読み、互いの呼気の熱さだけで自らの位置を調整する。


 トグたちが放つのは、周の幾何学的な模様を乱す「網をすり抜ける名もなき風」であった。

 彼らは歌わない。代わりに誰かが指を鳴らし、誰かが鋭く鼻を鳴らす。それは、文字の網に捕らえられた者たちには決して聞き取れぬ、生命の細かな震えだ。


 ふと、トグは腰に下げた青銅の短剣を抜いた。

 刃のひらに、天を射抜く「熒惑けいこく」の赤が映り込んでいる。まるで、刃がすでに敵の血を吸って、熱を帯びて発光しているかのようだった。その禍々しい反射が、トグの瞳を、そしてチキの瞳を、同じ「捕食者」の色に染め上げる。


「……来るぞ。あいつらの『掟』が届かない場所へ、俺たちが連れて行ってやる」


 トグは、地平線を埋め尽くす十七万のイナゴどもを見据えた。

 恐怖は消えない。だが、その震えは今や、獲物の喉笛を裂く瞬間のために研ぎ澄まされた、鋭い殺意へと変わっていた。


 周の厳かな唱和が最高潮に達し、第一陣が動き出す。

 文字に守られた「正義」と、文字に魂を売った「怪物」。その巨大な激突の隙間を、記述外の嵐であるトグたちが、声もなく駆け抜けていった。


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