表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第六章:血の盟約と赤い星

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/80

第三節:渭水の誓い

 狂乱の余韻が、冷えゆく谷底に沈んでいた。戦場に立ち込めていた血の臭いと樹脂の煙は、渭水いすいから吹き上げる夜風にかき消され、代わりに湿った土と、冷たい水の匂いが戻ってきている。


 トグは川辺に腰を下ろし、あの日打ち直した青銅の短剣を砂で磨いていた。刃に付着した血は、もう大邑商だいゆうしょうで見たくすんだ「墨」ではない。それはただの赤い、生温かい、そして時間が経てば乾いて土に還るだけの、命の残滓ざんしだった。


「終わったな」


 背後で、枯れ枝を踏む音がした。呂尚りょしょうだ。彼はトグの隣に腰を下ろすと、焚き火に新しい枝を投げ入れた。爆ぜる音が、夜の静寂を規則正しく、しかしどこか優しく刻む。


「……ああ。だがあの書記官は、死ぬまで木札を離さなかった。あいつらは、あんな板切れに、己の命まで預けているのか?」


 トグは手を止めず、低く言った。その声には、復讐を遂げた喜びよりも、深い空虚さが混じっていた。


「死ぬ間際まで、あいつは俺を見ていなかった。ただ、自分の頭の中にある『文字の列』が乱れることを恐れていた。……板の上が汚れることが、喉を切られるよりも恐ろしいのか」


文明の代償:縮められた世界

 呂尚は、空を仰いだ。そこには昨夜よりも一層赤く、ぎらぎらとした光を放つ火星――「熒惑けいこく」が、地上を射抜くように輝いている。


「文字というものは、世界を凍りつかせる呪いなのだ、トグ」


 呂尚の言葉は、世界のことわりの深淵を覗き込むような、冷徹な響きを帯びていた。


「人が文字を持つ前、世界は名もなき混沌だった。風はただ吹くものであり、そこに『風』という仕切りはなかった。だが人は文字を発明し、万物に名をつけ、それを木札に書き留めることで、世界を王の手に収まるサイズに切り刻み、平らにならしたのだ。……文字は世界を便利にする。だが、文字に書き留められた瞬間に、その命からは不確かな震えや、名づけようのない温もりが剥ぎ取られる」


 呂尚は焚き火の灰を枝でかき回した。


「書記官たちは、その閉じられた偽りの世界こそが真実だと信じ込み、本当の大地や、お前たちの呼吸を忘れてしまった。彼らにとって、記述されぬお前たちは『存在してはならない端数』なのだよ」


盗むべき理:名もなき病の種

「俺は、文字を覚えない」


 トグは磨き上げた刃を月光にかざした。そこには、王の権威を示す文様はない。ただ、トグの荒い息遣いと、渭水の流れを映し出す、無垢な輝きがあるだけだ。


「文字を覚えれば、俺もあの書記官と同じになる。目の前の風を嗅ぐ代わりに、板の上の汚れを探すようになる。そんなのは……死んでいるのと同じだ。俺は、山の匂いと、仲間の体温と、この刃の重みだけで戦いたい」


「だが、トグよ」

 呂尚は、焚き火の明かりの中で鋭く目を細めた。

「文字を拒絶するだけでは、あの巨大な帝国を倒すことはできぬ。殷の者たちが、いかにして世界を『織って』いるのか。その糸の通し方を知らねば、奴らの喉笛を正確に断つことは叶わぬのだ」


「……どうすればいい。文字を読まずに、奴らの考えを暴く方法があるのか」


 呂尚は傍らの河原から、大きさの違う数種類の石を拾い上げた。


「文字は『固定された死』だが、知恵は『流れる水』だ。奴らが木札に『兵一千、東へ』と記すとき、その一千という重さが大地をどう揺らし、どれほどの食糧を食い潰し、どれほどの乾いた埃を舞い上げるか。……文字を追う必要はない。その『影』と『重み』を肌で読み取れ。奴らが文字という檻の中で安心している隙に、お前はその檻の『組み方』を盗むのだ」


 トグは呂尚の手にある石の重なりを見つめた。

 文字という「死んだ記号」に頼らず、現実の事象がもたらす「重み」や「響き」の連なりとして、敵の動きを逆算する。それは、文明人が忘却した「野生の暗算」だった。


「あんたの言う『理』を、俺に貸してくれ。文字は覚えない。だが、文字で考える奴らがどう動き、どこで足を滑らせるか……その糸のもつれだけは、俺がすべて食らい尽くしてやる。俺たちは、奴らの織物の外側を走り、予測を裏切り続ける『生きた嵐』になる」


赤い星の下の盟約

 呂尚は立ち上がり、トグの肩に、節くれ立った、しかし温かい手を置いた。


「ならば、ここを新たな誓いの地としよう。我らは周の旗の下に集うが、お前たちは周の民にはならぬ。お前たちは、記されざる命の守り手であり、文明という病に対する、痛烈な抗体だ」


 トグも立ち上がり、呂尚の手を力強く握り返した。老賢者の乾いた皮膚と、若き戦士の血潮がたぎる皮膚。その接触は、記述されることのない「無字の契約」であった。


 渭水の川面が上空の火星を反射して、まるで見渡す限りの血の河のように赤く染まっている。その光景は、これから始まる激動の時代――「牧野ぼくやへの進撃」の幕開けを象徴していた。


「見ていろ、大邑商の王よ」


 トグは西の夜空に向かって、静かに、だが岩をも砕く決意を込めて呟いた。


「お前たちが木札に書き込んだ俺たちの運命を、今度は俺たちが、この爪と牙でズタズタに引き裂いてやる」


 焚き火が最後に大きく爆ぜ、一筋の火花が夜闇に消えていった。トグの心の中にあった文字の檻は、もうどこにもなかった。ただ、鋭く研ぎ澄まされた知恵と、仲間を想う熱い鼓動だけが、新しい歴史の足音を刻み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ