第二節:計算の限界、山脈が強いる摩耗の罠
清朝の平定軍がこの険しい渓谷へ足を踏み入れたとき、彼らの手元には、北京の戸部が緻密な役人の筆致で描かせた一枚の「地図」があった。
そこには、山の標高、予測される兵站の経路、そして一日に消費される兵糧の石数が、冷徹な数式のごとく網羅されていた。戦術書の平地の論理に従えば、数棟の石造りの塔を破り、集落の拠点を制圧した時点で、この地は完全に帝国の帳簿へと組み込まれるはずだった。
しかし、山脈という巨大な不規則性は、その書面の記述を嘲笑うかのように、彼らの軍靴を底なしの泥沼へと引きずり込んでいった。
「進め! 隊列を崩すな!」
前線の指揮官がいくら怒号を上げようとも、兵士たちの足並みは、一歩ごとに確実にその規則性を削り取られていった。
道なき断崖は、一人の人間が辛うじて這い上がれるほどの幅しかなく、平地で威力を誇った強固な三列の横隊など、瞬時に縦一本の脆い線へと引き延ばされてしまう。大砲を牽引する軍馬は、粘土質の泥に脚を奪われて次々と倒れ、その重い鉄の質量は、前進を阻む単なる障害物へと成り下がった。
帝国の算盤が弾き出した「平定の布陣」は、この峻険な迷宮そのものによって、一分、一秒の遅れを積み重ねられていく。
そして、その遅れの隙間を狙うように、文字なき民の「音」が再び牙を剥いた。
霧の向こう、視界の通らぬ岩陰から、前進する隊列のまさに中央を分断するように、一本の鋭い矢が撃ち込まれる。あるいは、頭上の断崖から不意に巨石が転がり落ち、数人の鳥銃兵を血肉の塊へと変えていく。清軍が銃を構え、その方向へ一斉射撃を浴びせたときには、そこにはすでに誰もいない。あるのは、ただ風に揺れる湿った草木と、かすかに響く山羊の皮鼓の乾いた残響だけだった。
彼らにとって、この戦いは「敵」との対峙ではなかった。姿の見えぬ山そのものに、自らの兵員と火薬を少しずつ摩耗させられていく、底知れない恐怖だった。
本陣の幕舎では、冷ややかな空気が漂うなか、算盤の珠が弾かれる乾いた音だけが響いていた。
帳簿を睨みつける官僚の目は、戦場の凄惨な血の匂いなど捉えていない。彼の視線が解剖しているのは、日々急激に跳ね上がっていく「消耗の数値」そのものであった。
「今月に入り、火薬の消費量は当初の予測の三倍。それに対し、得られた首級はわずかに二十余。兵糧の輸送に要する人足の賃金は、すでに辺境の税収の一年分を上回っている」
官僚の筆は、冷酷にその現実を紙のうえに記述していく。
国家という巨大な機構にとって、人間はただの消費される数字に過ぎない。どれほど多くの兵士が渓谷の底で泥にまみれて死のうとも、それが平定という成果に見合う代償であるならば、軍令の執行は継続される。だが、この山村が強いる摩耗の率は、明らかに朝廷の損益分岐点を越えようとしていた。
このまま進軍を続ければ、仮に集落を焼き尽くしたとしても、残されるのは莫大な赤字を抱えた「無価値な不毛の地」だけである。それは、合理性を至上命題とする清朝の官僚機構にとって、到底許容できない致命的な規矩の破綻であった。
碉楼の崩落した影から、その動向をじっと見つめていたルオの皮膚には、敵の軍勢からかつての勢いが失われ、じわじわと息切れしていく気配が、湿った風を通じて生々しく伝わっていた。
敵の足音からは、あの無機質な規則性が消え、代わりに焦燥と疲弊の重苦しい足取りが混ざり始めている。
「奴ら、山の呼吸に耐えかねている……」
ルオは、煤と血で汚れた自らの手をじっと見つめた。
文字を持つ者たちは、自分たちの都合で世界を区切り、帳簿に書き込もうとする。しかし、この山脈には、彼らの紙のうえには決して収まらない、数千年の時間が培った泥と石の摂理がある。どんなに巨大な鉄の物量を投下しようとも、その合理性そのものが、山の不規則な罠にハメられて自滅していくのだ。
ルオはノミの柄を握る指先に力を込め、霧のなかに立ちすくむ清朝の陣形を、静かな、しかし確信に満ちた目で見据えていた。




