第一節:異兆の風、五感が捉える鉄の臭気
岷江の切り立った渓谷を吹き抜ける風は、いつもなら、湿った苔と剥き出しの粘板岩が放つ、冷たくて青い匂いを含んでいる。
標高二千を超えるその岩棚は、雲が足を休める場所であり、空と大地の境界だった。若き石工の長・ルオは、荒削りな平石の肌に鉄ノミをあて、慣れた手つきで槌を振り下ろしていた。カーン、と甲高い音が渓谷の微霧のなかに吸い込まれていく。釘を一切使わず、石と泥の噛み合わせだけで天を突く塔を築く――それだけが、この山で生きるルオたち「羊の民」の、数百年不変の生の証であった。
不意に、ルオの背中の産毛が逆立った。
槌を握る手のひらが、奇妙にじっとりと湿りはじめる。大気が、にわかに重さを増していた。それは、雨を孕んだ雲が近づくときのあの爽やかな湿り気ではなく、もっと不純で、ぬるりとした、生き物の生理を狂わせるような「異物の熱」だった。
「……おい、鳥が止まったぞ」
背後で石を運んでいた若い石工が、低く掠れた声を漏らした。
見上げれば、それまで五葉松の梢でけたたましく鳴き交わしていた山鵲の群れが、一斉に鳴き声を止め、羽音さえ殺して一方向を凝視している。森が、まるで巨大な生き物が息を殺すように、不気味な沈黙に包まれていく。
山頂から駆け降りてきた突風が、ルオの鼻腔を激しく刺した。
ルオは思わず顔を顰めた。風のなかに交じる、おぞましいまでの臭気。それは、青草を食む野生の山羊のそれとは全く異なる、数百、数千という去勢された軍馬が流す、濁った汗と脂身の生臭さであった。そしてその直後、舌の根が痺れるような、冷たくて硬い「鉄の擦れ合う匂い」が、暴力的な質量を伴って霧の奥から這い出してきた。
ルオはノミを置くと、むき出しの岩肌に直接、自らの右耳を強く押し当てた。
ゴゴゴゴゴ……と、地殻の底を執拗に引っ掻くような、微細で均一な振動が鼓膜を打つ。それは地滑りのそれとも、急流の唸りとも違っていた。一定の規則正しい周期を持った、冷酷なまでに統制された「歩幅」の連なり。数千の足が、同じ速度、同じ歩調で、大地の起伏を平坦に踏み潰しながら前進してくる、構造体そのものの足音だった。
この岷江の迷宮のような渓谷は、これまでいかなる王権の「法」も「課税」も届かなかった、地図上の空白地帯であった――外の法理が通用せぬ「非互換領域」。道なき峻険に阻まれ、数百年もの間、中央の官僚の網から隔離され続けてきた聖域。
しかし今、その境界線の向こう側から、山そのものを一つの「規格」で塗りつぶそうとする、清朝という名の巨大な事務システムが、その強固な末端(兵員)を這わせてきているのだ。
彼らは地形の険しさを克服するために来るのではない。その険しさという自然の複雑性を、自らの軍靴の数と、鉄の銃身の均一な規則性によって力ずくで踏み平らし、平坦な更地へと変えるために、この険峻を這い登ってくる。ルオの背骨を伝う戦慄は、生身の敵への恐怖ではなく、得体の知れない「記号の檻」が、自分たちの世界を包囲しつつあるという構造的な予感に他ならなかった。
「来るぞ。――漢人の、それも途方もなくデカい軍勢だ」
ルオは岩肌から顔を上げると、指先についた石の白い粉を、衣服の裾で手荒に拭った。その横顔は、山で生きる獣が猟師の罠を察知したときのように、鋭く、乾いた緊張に引き締まっていた。
「すぐに村へ戻る。シビ(祭司)に、風の匂いが変わったと伝えるんだ。早くしろ!」
若者たちが血相を変えて岩棚を駆け降りていく。彼らの足音が、引き裂かれた霧のなかで乱反射した。
ルオはもう一度だけ、風が送ってくる鉄の匂いのする方向を睨みつけた。
はるか崖下、谷の入り口を覆う深い霧の奥に、本来そこには存在しないはずの、規則正しく配置された「松明の赤い点」が、まるで巨大な百足の眼のように蠢いているのが見えた。
彼らは、自分たちの名前も、住んでいる家の数も、すべてを奪うためにやってくる。文字を持たないことで守り抜いてきたこの山の平穏に、ついに容赦のない、冷たい外の世界の法が肉薄していた。
ルオは胸の奥で煮え返るような熱い血の巡りを感じながら、自らの足でしっかりと山の土を蹴り、要塞化された集落へと向かって走り出した。




