第四節:盾の反転、文字を匿う迷宮
張り詰めた均衡を破るように、岩陰から静かに歩み出たのは、白髪を一本の木簪で結わえた小柄な老人だった。里の長であるというその老人の眼差しは濁りなく、底知れない沼のように静まり返っている。
「文字、か」
長はアシャの言葉を反芻し、歪な木版の角に視線を落とした。その声音には、明確な嫌悪と、それ以上の深い諦念が混ざり合っていた。
「かつて我らの先祖がこの賀蘭山脈の割れ目に逃げ込んだのは、その不気味な文字から逃れるためだった。文字は人を縛る。名を与えて戸籍に縛り、数を記録して税を毟り、法を突きつけて命を戦場へと駆り立てる。中央の王権が作ったあの息苦しい理から抜け出すには、文字を持たぬ空白の民となるしかなかったのだ。それを今更、なぜ持ち込む」
「その通りだ。文字は牙であり、縛り付ける鎖だった」
アシャは静かに首を振った。しかし、その瞳には凍てついた論理の光が宿っていた。
「だが、今や天理は反転した。北から来たハーンの軍勢は、我らから文字を奪い、すべての記述をこの地上から削り取ろうとしている。彼らにとって、我ら固有の文字や言葉は、管理を乱す目障りな障壁に過ぎないからだ。文字を失えば、我らはただの物言わぬ家畜となり、彼らの巨大な掟のなかに均一に組み込まれる。かつて王権の『支配の道具』だった文字は、今や外敵の侵食を拒絶するための、唯一の『精神の盾』へと変貌したのだ。これを見てほしい」
アシャが懐から取り出したのは、大夏の辞書『掌中珠』だった。
複雑極まる筆画が並ぶその書は、他者の安易な理解を完璧に遮断する、強固な城壁そのものであった。文字から逃げた聖域に、今度は文字を隠し通すために戻る。歴史の因縁が数百年を経て完璧な円環を描き、その意味を真逆にひっくり返した瞬間であった。
アシャは震える両手で、重みのある『掌中珠』を長へと差し出した。
長は無言で手を伸ばし、その書を受け取った。
その瞬間、二人の指先が微かに触れ合った。
長の掌は、長年弓を操り、獣の皮を剥ぎ、大地の硬い土を耕し続けてきた、分厚く硬い「野生」の肉厚さを持っていた。対するアシャの指先は、細く、筆を握り続けたためにできた胼胝があり、今は岩壁に皮膚を吸われてボロボロに裂けた「知性」のそれであった。
二つの全く異なる生が生身の皮膚を通じて交わったとき、張り詰めていた谷間の空気が、ふっと微熱を帯びるように弛緩した。
長は、煤と龍脳の焦げ臭い匂いが染み付いた羊皮紙の頁を、節くれだった指でそっとなぞった。西夏文字の四角く堅牢な一画一画が、山の冷気の中で生き物の鱗のように鈍く光る。
それは食えもせず、武器にもならないただの記号のはずだった。
長い沈黙が、谷間を支配した。
風の音さえも遠のくような静寂のなか、長はただじっと、手の中の書の重みと、そこに付着した乾いた血痕を見つめていた。数百年もの間、里が拒絶し続けてきた文字の呪い。それが今、目の前でボロボロになり、命を削って運ばれてきたという事実が、老人の胸を重く圧迫していく。
言葉の理屈ではない。この満身創痍の男たちが、泥にまみれ、血を流しながら、それでも手放さなかったものの重みが、長の頑なな掌へと確かに、時間をかけて染み込んでいった。
「……重いな」
長は、ずっしりとした本の質量を確かめるように、ようやく言葉を呟いた。
「国を滅ぼされてもなお、これほどの手間をかけてこの記号を守ろうとするか。文字なぞ担いでいても、お前たちの血の巡りは、どうやら俺たちと変わらん泥臭さのようだな」
長の口元に、野性味のある小さな苦笑が浮かんだ。彼は弓を入れるよう、顎で部下たちに指図した。
かつて袂を分かった「野生」と「知性」が、大夏という魂を絶やさないというただ一つの原始的な祈りのもとに、再び一つへと溶け合っていく。




